2010年4月20日

ユウェナリスのことば(前半)

昔から、そりゃおかしいんじゃないの、と思っていた言葉のひとつに、「健全な精神は健全な肉体に宿る」というのがある。
でも、このことわざは、誤訳なのだそうだ。

私は、誤訳はおろか、原文も、誰が言った言葉なのかも知らなかったが、差別的な響きであるという嫌悪感からの反発心よりも、「〈そうみえる人もいる〉だけのことで実際のところはわからない。しかもそれが人間のあるべき姿であるかのように言われることには納得いかない」と思っていた。だいたい、なにをもって「健全」というのか。人間とはそんなに単純に語れるものであるはずがない、人間について簡単に言い切れることなんか正しいはずがない、と小さいころから考えていたし、いまもその考えは少しも変わっていない。

反発を感じていた理由はもうひとつあって、この文句が、体育の先生か剣道の先生に言われたのだったか、覚えがないのだが、文脈としては、「身体を鍛えてこそ、強い心が育つのだ! ぐずぐずしてないで校庭5周、いや10周追加!!!」みたいな体育会系スローガンとして教えられたことによる。
というのは、「健全な精神」が「健全な肉体に宿」った事例が見つかったとしても、「健全な精神は健全な肉体に宿る」という一文自体は何も、精神と肉体の有り様を因果性でもって説明しているのではない。つまり、「ほほー、元気な心は元気な体あってのことなのか。じゃあ健やかな心を手に入れるには、元気な体を手に入れればよい」と考えるのは、両者の間にどんな関係性があるかについて途中の要因をすべてすっとばしているのであり、しかも「元気な身体」が「フィジカルに筋肉(マッスル)を鍛えることによって達成される」などと勝手な解釈をしてしまうとそれはもはや「風が吹けば桶屋が儲かる」*の現代解釈と同じ、ただのトンデモ理論なのであった。精神と肉体という言葉が、風と桶屋ほど突飛な間柄でもなく、体に悪いところがなければ物事を良いほうに考えられる可能性が高いということはある程度真であろうから、忍耐論が大好きな時代の日本では、なんだか説得力のありそうな「スポーツで心と体を鍛える」という、しごきにはうってつけのスローガンのように感じられてしまったのではないか。
* もとは「物事は意外なところに影響を及ぼす」ことのたとえ。

だから、こういう一部で全体を説明するような文句は、戦時中の軍国主義教育の中で強制的に押し付けられたものなのではないかと思っていたのだが、そうではなかった。




(後半へ続く)

1 件のコメント:

  1. あらそーお ボクはこの言葉 意外と好きよ

    そりゃしごきの口実にされたら困るけど
    健康な体には健康な精神・魂が宿るって考えは肯定してるっす

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