2010年4月12日

祈り





*小林秀雄と岡潔の対談『人間の建設』新潮文庫、2010より



岡潔は仏教を深く信仰しており、小林秀雄との対談の中でも物事の説明をするのに幾度も仏教の用語を用いている。  
「無明」は、仏教用語で、人の迷いや醜い面のことをいう。岡潔によればピカソは、無明を描く達人であったということだ。しかし、ピカソの絵はおもしろいかもしれないが、人をくたびれさせる。長く見ていられるものではない。それはどうしてかというと、「無明」を「美」だと思い違えているからだ、と岡潔は言う。そして、もっといえばその「無明」すなわち人間の迷いや煩悩を描くことが「個性」だと思い込み、その個性こそが芸術であると威張っている現代(この対談が行われたのは昭和40年)の芸術文化の潮流に懸念を覚えているという点において、小林秀雄は岡潔に深く同意している。つまり、絵描きと対象物が敵対関係にあるような状態では、神経のいらだちを画面に上手く出せば出すほど個性があるということになる。するとおもしろい絵はかけるかもしれないが、それは美ではなく、個性というのもそういうものではない。無明を描いて平和を唱えても、平和になるはずもない、というのである。そうはいっても、対談の後半では、無明をあれほどまでに描けるということは、無明をそれほどまでに知っているということであり、無明をよく知らなければ良いほうのこともよくわからないかもしれないと思えば、ピカソやドストエフスキーは無明の達人である。彼らのおかげで無明ということがひとはよくわかるのだ、と二人は先の芸術家たちを評している。  


無明を押さえられれば、人はやっていることがおもしろくなる、と岡潔はいう。では、無明を押さえるにはどうしたらいいか。 「数学を熱心に勉強するということは我を忘れることであって、根性を丸出しにすることではありません。無我の境に向かわないと数学になっていかないのです。」というのは、数学については私はわからないが、自分の身近なことについてであれば、わかる。絵を描いているとき、大切な文章を書いているときに、いやなことや悲しいことを考えていては、かいているようでいて何もしていないのと同じで、絵も文も仕上がってはいかない。本当に集中しているとき、考えていることは、極めて抽象的ながら対象がはっきりしているゆえに言語化を全力で試みるのが楽しくて仕方がないものであり、そういうときは、お腹がすいたとか雨が降ってきたから洗濯物をとりこまなくちゃとか母が呼んでいるというようなことはいっさい気がつかなくなる。そうして何時間が経ち、ふっと気がついたときに、私は「ああ、戻ってきた」と思う。そういうとき何を考えていたかを説明するのは困難であるし(私にしかわからない言葉で考えているし、説明する必要もないと思っている)それが無我の境とまでいっていいものかはともかく、我を忘れるとはそういうことだ。チェロの練習や絵を描くときや粘土、木彫りなどをしているときにも、「あ、わかった」「ああ、できた」と知るのは我を忘れて全情熱を費やしたときのみであり、根性を出して頑張ろうとしてしまうとそれは練習や作品作りとは呼べないのである(でも、ただ頑張ってしまうことは、よくあるんだけども。)また、たとえばじっと長いこと雨の音を聞く。そうするとだんだん我を忘れて雨の音がおもしろくなってくる、その心の作用は私にもとてもよくわかる。(この対談の中には良寛は冬の雨の音を聞くのが好きだったというエピソードが出てくる。)それも無明を超えてこそ知るものであろう。私などは日々悶々と思い悩む無明のかたまりのようなものだが、それを超えた先に何があるかについて、知っていることもある。この確信は、自分を信じられるというのとほとんど同義と言ってよいだろう。であるから、我を忘れる世界に居る時間を長くして大きなことをやり遂げたいものである。達すれば二つの世界のように思えているものがひとつになる桃源郷があるかもしれない。  


岡潔はまた、「愛と信頼と向上する意志」の三つが人間の中心となると言っている。共感、というのではいい足りない、とても心に沁みる言葉だ。無明を押さえ、自然の有り様や本当に美しいものを知り、岡潔のいう意味での個性を発揮するには、この三つは不可欠だという気がする。この本は、二週間ほど前に名古屋で出会って、電車の中で読んだ。二人の巨人の言葉は、それぞれに質感があり、ひとつの言葉にも豊かな感情がある。涙なしには読めなかった。 昨日また読んだ。所々、声に出して読んだ。声に出して読みたい本には、しょっちゅう出会えるものではない。枕元に置いて寝る前に手に取れるようにしてある。  


人とって何が幸せかはみな違うわけだが、それであってもすべての人に幸せが舞い降りて、心が軽くなるといいと思う。
















「祈り」/紙粘土


それにしても紙粘土はバランスをとるのが難しい。彫刻をやりたい。

3 件のコメント:

  1. 「無明」云々は10回くらい読み返さないと理解できなそうです

    「祈り」の顔がとても穏やかで
    悲しみの底にいて救いを祈っているのではなく
    願いが叶って感謝しているようにみえるので
    スーさんは平和の中にいるのかなーっと思いました

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  2. 無明のところは、書き方がわかりにくいでしょうか。ごめんよ。

    >スーさんは平和の中にいるのかなーっと思いました

    ううむ。。。どちらかというと、すごーく複雑な思いを抱えて作り始めたのです。でも、出来上がったものが、「感謝しているようにみえる」と言ってもらえるのは嬉しいです。ありがとう。

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  3. ≪…無明…≫で観る自然数の絵本あり。
    「もろはのつるぎ」(有田川町ウエブライブラリー)

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