2010年10月21日

Autumn Leaves (by Charles Dickens)

この街に引っ越してきて、2週間が過ぎた。この街、といっても、街のことは何も知らない。アパートから駅までの道と、スーパーマーケットまでの道を歩いて覚えたくらいだ。スーパーマーケットへ行く途中、河を一つ越えたところに森がある。森といっても、鬱蒼と木々が茂っているのではなく、森と呼ばれる敷地を杉やケヤキの木が取り囲んだ公園である。敷地の中には、図書館や古い建物やよく手入れされた芝生があり、あずまやの隣の池には、アーチ型の木の橋がかかっている。そこには一度散歩に行った。とても天気のいい穏やかな暖かい日だった。池のまわりで鳩をたくさん見かけた。子どもたちが撒くお菓子のくずに寄ってくる鳩を見ていたら、一瞬自分がイギリスにいるような錯覚を覚えた。天気のいい日も曇りの日も、ロンドンにも、グラスゴーにもオックスフォードにも鳩がいた。日本の実家には鳩はいないし、日本でとくに鳩に関する思い出というものもない。意識したことはなかったけれど、私にとって、鳩はイギリスの記憶の一つになっていたようだ。鳩のいるイギリスの空間に一瞬引き戻されて、懐かしいとは思わなかった。現在自分がなじみのない日本のある街にいることがより強く実感されただけだ。そして、ここにいることが正しいことなのか、間違ったことなのか、今の私には判断ができない。

しばらく家を出て一人になりたいと前から思っていたので、久しぶりの一人暮らしをすることになったら、部屋の棚にはあの絵を飾ろう、あの料理をしよう、おやつにはあれを作ろう、美味しいコーヒーのお店を見つけて豆を買おう、といろいろと思い描いていたのだが、実際には、引っ越してきた日に予定通りの場所に絵を置いた以外は何もしていない。実家にいる時よりもごはんとお茶の時間が減って、勉強時間が増えた。引っ越してたった2週間なのに、ちょっと体重が減って皮膚が少しかさかさする。実家の母のごはんはやはり栄養のバランスが良いのだろう。

ところで、どこに住んでも、自分の部屋はいつも似ていると思う。大学の時に一人暮らしをしていた8畳の部屋も、何度か引っ越したイギリスの部屋も最後に住んでいた家も、そして今の部屋も、間取りやつくりは随分違うのに、どこか雰囲気が似ている。同じ人が住んでいるのだから当然なのかもしれないし、食器や衣類や、必ず持ってきている本が同じだからということもあるかもしれないけれど、多分それ以上に、10年間前も今も、自分の居場所として求めるものが変わっていないのだと思う。それは、絶対的に私の身体と精神を守り、自分の基点になる場所ということだ。「空間」(居住する空間、音楽のある空間、絵のある空間、子どものいる空間 etc...)というものを意識するようになった大学の3年以降、私は、自分が暮らす空間についても考え、こだわりと信念を持つようになった。そしてその実現のために多くの注意を払ってきた。私のこだわりと信念というのは、大概は極めて些末なことであることが多いが、部屋についてのそれは、実現されていなければ私は混乱してしまうので粗末にはできないのだった。

今は朝の6時半。あと1時間くらいしたら燃えるごみの収集車が大きな音でやってくるだろう。毎日は淡々と過ぎていく。

動画は、ディケンズの詩 ”Autumn Leaves” の朗読。
http://www.youtube.com/watch?v=5O7OcMUagYY

















*この日記にははっきりしたトピックはない。オチも終わりもない。昨日2冊問題集が終わったので、記念に何か書くことにした。うち一冊はすごく苦手な分野のものだった。ほっとした気持ち。