2010年6月28日

日々訥々

今後の先行きを考えると動悸がする日々である。 一日のうち、机に向かっている以外は、チェロの練習をして、家事を少ししている。
そういう生活を始めて二ヶ月近くが経った。

なわとびはすっかり止めてしまって、もう最近では、腰が痛くなると床に寝そべって勉強の本を開いている。ずいぶん行儀が悪くなったものだ。今は、ベッドを背もたれに、床に座ってこの日記を書いている。運動不足でハラニクが気になりつつある。
階下で妹がベートーヴェンのピアノソナタ『悲愴』の第2楽章を弾いている。離れた部屋から聞こえてくる明るくて若々しい悲愴は、どこか哀しい。そういう性質の音楽だからなのか、妹に何か悲しいことでもあったのか、私の心持ちの問題なのかは、わからない。

ところで、このベートーヴェンのピアノソナタ第8番ハ短調 op. 13の『悲愴』の第2楽章に私が題名を付けるなら、「内省」としたい。この音楽には、素直に自分の声に耳を傾け、いままでの人生を、自分にがっかりするのではなくこれからに繋がる何かを学ぶためにまっすぐに振り返らせてくれる力があるような気がする。
(ナクソスで18種類聴いてみたが、ブレンデルの鐘の音のような演奏が印象に残った。)
夜はたいして眠れないので、じっと机に向かって勉強を続けているが、時々どうしようもなくやりきれない気持ちになってくる。頭の中でいやな、悲しい想像が巡る。そういうときは、諦めてベッドに入って続きをしながら深呼吸をするか、外の蛙の声を聴く。蛙は夜鳴く。家の外には数種類の蛙がいて、それぞれ違う声で鳴いていることなど、夜起きていなければ知ることはなかっただろう。

朝には日が昇り、世界は明るんでくる。
雨が降っていても、世界は明るくなる。








1週間前に始めた問題集が一冊終わった。記念に日記を書くことにした。少し嬉しい気持ち。

2010年6月17日

ブリッジで魂の柱を跨ぐ

チェロの駒と魂柱を替えていただいた。 
妙齢・無職・実家住まい・ささやかな楽しみは庭の二十日大根の成長、という現状においては贅沢とはわかっているけれど、イギリスにいるときから長い間希望していたことだったので、念願かなって本当に嬉しい。 

交換をしてくださったのはとある神職人で、以前一度工房に連れて行ってもらったときに、お願いするならこの方しかないと確信した人であった。 

チェロは、生まれ変わった。もう15年くらいつきあっている楽器で、長所、癖、不具合などよく承知しているつもりだが、先日、目の前で駒と魂柱を替えていただいた後、弓を載せた瞬間に音が鳴ったのにはおどろいた。こんなにいい音が出るとはびっくり。下手の一番の原因が自分の腕の不味さなのはもちろんだが、正直いままで、楽器に限界を感じていた部分もあった。ごめんよ、○○(←楽器の名前)。見た目にもしまりがでて楽器らしくなったのにも重ねてびっくり。 

驚きと喜びで挙動不審になっている私に神職人は、 
「僕は、女の人がチェロを弾くというのはいいなあと思うんだよね。旦那さんが(人生に疲れて)もうどっかへ飛び降りようと思ったときに奥さんのチェロの音が聴こえてきたら、ああ人生にはまだこんなに楽しいことがあると思って(自殺を)思いとどまるかもしれないね。」 
と言ってくださったのだが、いやあ、このシチュエーションってどうなんでしょう!? このような究極の事態そのものはできる限り避けたいですね! とはいえ、(いまはあらゆる意味でこういう場面は想像できないけど)こういう種の力を持ったチェロが弾けたらいいなあとはとても思う。なぜかというと、人の心を強烈に動かし時には行動にも影響を与えるような音楽というのは演奏する人の深い信念から生じるものだと思うし、そうだとすると、チェロをやっていることで究極的には何を目指すのかと問われたとき、人が・とくに自分にとって大切な人が、生きていたくなるような音楽の所作です、と答えるなら、それは極めて健全な精神のあり方であるような気がするから。神の言葉は深い。 

さて、楽器のせいではなく、自分の腕の問題がより明らかになって、工夫すれば違う音が出るようになった。練習がまた楽しくなり、心の傷にもかさぶたができつつあるのを感じる。