2010年9月20日

A summer evening (oil on canvas)





チェロの先生を描きました。

2010年9月7日

読書の記録

日本行きの飛行機に乗ってから帰国して時差ぼけていた数日間、久々に少し本を読んだ。


Hard Times ディケンズ ペンギン・クラシック
A Delius Companion  クリストファー・レッドウッド編 John Calder, London(読みかけ)
・『タルコフスキー映画』馬場広信 みすず書房
・『くさいはうまい』小泉武夫 文春文庫



ディケンズを読んでいるとヴィクトリアン時代のロンドンにタイムスリップしたような気分になる。石造りの建物の冷えびえとした空気や、通りのほの暗い街灯の下をとぼとぼと歩く野良犬、ぼろを着た子どもたちが遊んでいる路地の様子なんかを、まるで自分もそこにいるかのように肌で感じることができる。もちろん自分が疑似体験しているのは、知識として持っている当時の生活の様子、本の挿絵や当時の絵画、自分が知っている現在のロンドンの街などの情報を総合した想像の世界に過ぎないわけだけど、それでもやはり、私にとっては映画を見ているよりもスリリングで楽しい。『ハードタイムズ』はディケンズの小説には珍しくロンドンを舞台にしていないが、19世紀のイングランドの工業都市に住む人々の様子が生き生きと伝わってくる。 
ところで、ディケンズは性格の悪い人の描き方が唸るほど上手い。英語で読むのは時間がかかるが、がんばって原書で読むとなおさら、登場人物の味わい深いといっていいほどの性悪さが楽しめる。『ハードタイムズ』にも、『クリスマスカロル』の主人公、守銭奴スクルージ爺さんに負けないくらい性格のひねくれた人物が二人登場する。「事実」のみを重んじて自分の子ども達の子どもらしさを奪い、息子と娘の人生を潰してしまう男(Mr. Gradgrind)と、銀行家で会社を経営している男と結婚しようという目論みに失敗して、彼の妻になった人に意地悪を繰り返す、家柄だけが自慢の女(Ms. Sparsit)。二人とも「実際こんな人いるのかね」と苦笑してしまうほど嫌な人物だが、彼らの行動があまりにも克明に描写されているためか、意地悪な場面でもつい笑ってしまう。 


(これは中表紙の写真)
ィーリアスとその仲間の本は、1928年からディーリアスが死ぬまで彼の作品の筆記をつとめたエリック・フェンビィの70歳の誕生日を記念して編纂・出版された。エルガー、トーマス・ビーチャムを始めとする、ディーリアスと親交のあった人々が作曲家とのエピソードを語っている。まだ読みかけだが、ディーリアスを聴きながらゆっくり読みたい一冊。



タルコフスキーの映画についての本は、見たことのある作品についての解説書として読むにはおもしろい。人物の行動や場面がどのようなメタファーとして機能しているかを細かく分析し、一度見ただけではわかりにくい、作品にとって重要な場面について丁寧に解説している。タルコフスキーの思想についても、本人の著作からの引用ではなく、著者独自の視点での説明を試みている。しかし、作品を詳しく観たことのある人を対象に書かれているので、作品を観る前の予習として読むと先入観を刷り込まれてそれに縛られた見方になってしまうかもしれない。




発酵の研究で有名な小泉武夫・東京農大名誉教授の著書。2002年にこの方がNHK人間講座で担当していた「発酵は力なり」という番組は面白かった。世界中の発酵食品を食べて歩いている小泉氏だが、番組では、納豆はかき混ぜればかき混ぜるほど粘りが出て美味しいとか、納豆菌は最強とか、納豆についてことさら熱く語っていたのが印象的だった。
この本は母と妹たちとお昼を食べに行った先のお土産売り場で買って、数時間で読んでしまった。『くさいはうまい』は三章立てになっている。第一章は甘酒、味噌、チーズ、ピクルスなどの発酵食品について、それぞれの成分と作り方についての簡潔な解説。第二章「くさいはうまい」は、著者が世界中で食べた、臭いものについてのエッセイ。これがおもしろい。読んでいて目が痛くなりそうな臭さの魚や、鼻が曲がりそうな果物などを食べたときの話が、臭い食べ物への愛に溢れた語り口で書かれている。野生動物の肉なら何が一番不味いかって狐ほど不味いものはないそうだが、自分が食べた中ではタヌキの肉は泥臭さと尿臭さ(!)の強烈な悪臭がして食べづらかった、しかし昔の人がタヌキ汁といってあの臭い肉を美味しく食べようと工夫したのには感心してしまう、というように、ある食べ物がいかに臭いか、それを人々がどう工夫して美味しく食べているかについて、うんちくたっぷり、ユーモアたっぷりに書いてある。「激烈臭発酵食品」の項は、カナディアン・イヌイットの「キビヤック」という発酵食品のことを書いているのだが、食事前に読むのはおすすめできない。第三章は「におい文化の復権」と題した、哲学者・中村雄二郎との対談。
発酵した幼虫とか何年も寝かせた魚とかを平気で食べるエピソードを読んでいると、食べているものは「うっ」と思うようなものなのに、何故か元気が出てくる。ご本人がくさくてめずらしいものを食べるのを楽しんでいるからだろうか。たとえば、アザラシの皮にアパリアスという海鳥を70〜80羽も詰めたものを穴に埋めて何年も寝かせ、数年後にドロドロに腐ったアザラシの中からその海鳥を取り出して尾羽を抜き、肛門に口をつけて体液を吸い出す「キビヤック」を小泉氏は「極めて美味」「二、三羽食べたらもうあとは止まらない」と言っている。私にとってはほとんどホラーであり、想像しただけで具合が悪くなった。そして、これを目の前に出されたら、本当は自分が食べる自信と勇気がなくて食べられないだけなのに、「こんなものを食べるなんて私には無理」とつい見下したようなことを言ってしまいそうな自分に気がついた。小泉氏は違う。自分の想像を超えた奇妙な食べ物にも、それを食べている土地の人を決して馬鹿にすることなく、むしろその知恵に感心しながら喜んで挑戦している。たぶんこの姿勢が、この人すごい。。。と読者に勇気を与えるのだろう。それにしても、人を馬鹿にするということは、自分に自信がないか自身の価値観を信用できないことの裏返しなのだなあと反省。この他にも、珍奇な食べ物、くさい食べ物を食べた時のエピソードが満載なので、この本は電車の中で読むのは危険かもしれない。小泉氏は、文章でにおいを感じさせることのできる特異な人物だから、大笑いしてしまう危険性と、読んでいるだけで電車の中が臭ってくる可能性と、両方の面から危ない。






4冊とも読み応えがあって楽しめた。気になった方は読んでみてください。

2010年9月1日

夏の天気・転機(2)

Final mov. A Prom:ギル・シャハムと音楽の世界 

ギル・シャハムは、私が最も好きな音楽家の一人である。今生きている中では間違いなく最高のヴァイオリニストだと思う。何が素晴らしいって、彼の音楽は生きる喜びに溢れているところ。それから、いま鳴っている音楽の向こうにある、繊細でドラマチックで、壮大な世界を見せてくれるところ。その世界について説明するのは難しいが、いま持っているイメージをできるだけ言葉にしてみよう。 

私たちは、部屋の中にいる。部屋には大きな窓があって、その窓は開いている。大きく開いた窓にうすい半透明の美しいカーテンがかかっている。カーテンは、陽の光で強烈な光を帯びたりモノトーンになったりする。外の風によって形を変え、揺れたり膨らんだり丸まったりする。私たちはそのカーテンの動きを少し離れたところから飽きることなく眺め、その変化を楽しんでいる。時折カーテンが風に持ち上げられて、外の景色が見える。そこには、知識としては少しは知ってはいるけれど実際に体験したことはない、太古から続く生き生きとした広大な世界が広がっている。星が生まれてどんどん膨れ上がって最後にはブラックホールに収縮し、動物たちが何億年もかけて進化を遂げていったというような途方もない年月の世界。その世界を、私たちは憧れと知的好奇心から、カーテンの動き以上にもっとよく知りたいと切望する。想像力を働かせて、大きな風を期待して、もっと向こうを見ようとする。風が十分になければ、外を見ることは叶わない。そして、カーテンを取り去ってしまったら、窓の向こうの世界は、たんに視覚的な情報として認識される景色に過ぎない。鋭い観察によって、その世界について知識として記憶し、記述することはできるが、そこに見えている以上の物は知覚されない。カーテンの向こうが見えるのは、奇跡的なことなのだ。うすいカーテンが音楽で、カーテンの向こうに垣間見えるのが、音楽を超えた世界。 

注:私はパンチラについて語っているのではない。これは、音楽についての話だ。 

実際には音楽は目に見えないし、陽の光や風のような自然の力によって起こっているのでもない。演奏家の洗練された技術と研究に基づいた解釈とパフォーマンスによってなされる人為的なものであり、演奏者を無視して音楽だけ語れるものなのか、私にはわからない。音楽はカーテンだと言っているわけではない。音楽の向こうの世界のイメージを描くために視覚的なたとえを試みている。 

この説明で、どのくらいの人にどのくらい私がイメージするものが伝わるかはわからない。でも、音楽とはそこにただ鳴っていているという価値以上にとんでもなく大きな力を持っていることを、ギル・シャハムのような演奏家から私たちは知ることができるということを書きたかった。彼がヴァイオリニストとして、彼の個性だとかかっこいいところだとかそんなものではなく(いや、彼はハンサムだし演奏中の表情を見ていても楽しいけど)、演奏を通して大きな別の世界を垣間見せてくれることに、私は深い敬意と感謝を感じる。一体どれほどの神経とエネルギーを使ってその仕事を引き受け、我々に分け与えてくれているのだろうか。演奏しながら何を見ているのだろうか。私にはわからない。でも、想像する限りでは、聴く人に何かを教えようとしているのではなく、むしろ演奏者である自分を通り越して、聴く人がそこで鳴っている音楽を超えたものを感じていることを許容してくれているような気がする。なぜそんな自我を超えたことが可能かというと、彼自身が音楽の力を深く知っているからだろう。 

数年前にロイヤル・フェスティバル・ホールで、ギル・シャハムの弾くエルガーのヴァイオリン協奏曲を聴いた時のことは、生々しく思い出せる。自分が座っていた椅子の具合、ステージまでの距離感、オケがソリストにぐいぐい引っ張られて別次元の音楽空間へ向かう躍動感、観客の集中と興奮。 

この夏、BBCプロムスには一度だけ行った。ギル・シャハムがバーバーのヴァイオリン協奏曲を弾くというので。演奏はBBC Symphony Orchestra、指揮はデイビッド・ロバートソン。 
席は上のほうだったので、姿は小さくしか見えなかったが、演奏はとても楽しかった。
バーバーのヴァイオリン協奏曲は優れた楽曲であり、層になった音の組み合わせ方にわくわくしたし、端正で美しいメロディーには涙が出た。なんというドラマチックな音楽なんだろう。舞台の上で、ありとあらゆることが起こっている気がした。世の中にはまだまだ自分の知らない、深く尊く美しい世界がある。そして、音楽を聴きながら、私は自分の人生について、自分にとって何が大切か考えることができた。答えはもうそこにあった。 

私がいいなあと感じる演奏は皆、音が綺麗とか情熱的だという以上に、その人の持つ個とその向こうにあるものが感じられるという点で共通している。私のチェロの先生、Lowri Blake(ロウリ先生)の演奏には、ギル・シャハムの宇宙の進化を感じさせるような世界観とは違って、人間の強靭さと思考の豊かさ、感情の複雑さについて考えさせられる力がある。たった数音でも、はっとすることがある。例えていえば、すごく新鮮で美味しいお寿司を口にした瞬間に、その魚が海で泳いでいるところや、魚市場の箱の中でもぴちぴち跳ねているところ、それがまな板の上で鋭利な包丁で捌かれているところなどを、自分が実際に目で見たことがなくても鮮やかにイメージし、想像の中で体験できるということがあると思う。それが、その魚が実際に辿ってきた道筋であるかということは重要ではない。目の前にある対象物から出発して大きなイマジネーションの世界を旅して帰ってくるという、一瞬にして壮大な旅ができるということが貴重だ。そういう旅をさせてくれる演奏とは、なんて懐が深いんだろうと思う。 


こういう感覚的なことは、もうあまり書きたくないと思っていた。きっと、とても曖昧で、不明瞭で、わかりにくく、非論理的で、伝わらないばかりでなく、もしかしたら人を戸惑わせたりいらいらさせたりするかもしれないから。ここに書いたことも、ほとんど意味不明な妄想に見える可能性もある。だけど、夏の終わりにプロムスに行って、ギル・シャハムの演奏を聴いて、ああ、今まで辛いこともあったけど、生きててよかったなあと思った。自分にはまだちゃんと力が残っていたんだとわかった。そして、正直に何か書きたくなった。これまで、音楽を通して壮大な世界を体験することで、私は自分の重要な部分を創ってきた。コンサートでもCDでも普段の演奏でも、良いものを聴いた時は、カーテンの向こうに見えた世界を言葉に置き換えてみるトレーニングをひとりで随分続けてきた。そのトレーニングを通して、私は人のいいところを見つけて言葉にすることができるようになったと思う。今後も、怖れることなく、自分の言葉で書き、必要な時は勇気を持って言葉で伝えていきたい。 

人生はまだまだ長いし、挫折だって辛い思いだって失敗だってこれからもするだろう。だけどあまり暗いことばかり考えないで、自分のことをもうちょっと信用してひとりでやっていけば、いつかは私にも、人を幸せにするようなことを何かかたちにできるかもしれない。 
空の星のように小さく遠い希望だが、希望を持てたことが、このひと月で最も大きな出来事だった。

夏の天気・転機

これまで実家(山)で暮らしていたが、思うところいろいろとあり、8月はイギリスで過ごした(途中フランスのチェロコースにも行った)。 

ここ数ヶ月は精神的に相当きつく、薬の力も借りてぢっと回復を信じてやってきて実際随分良くなったのだが、イギリス(とフランス)へ行く気力が本当に自分にあるのかは、出発の前日まで自分でもわからなかった。前日になって、ここまで回復できたのは私一人の力ではない、家族、友人、病院の先生など、支えてくれた人たちのおかげだから、このひと月できっと元気になって帰って来ようと腹が据わった。結果からいえば、イギリスに行って本当によかった! 昨日日本へ無事帰国した。 

もう一度イギリスへ行ってこようという選択は正しかった。基本的にはただ勉強をしていただけであるが、それでも、自分にとって大きな出来事はあった。この夏印象的だった体験を2つ書こうと思う。

その前に... ひと月間、Oさんには本当にお世話になった。部屋を貸してくださっただけでなく、散歩に連れ出して美しい夏のウィンブルドンを見せてくださったり、美味しい食事を作ってくださったり、ここではとても書ききれない。無事にイギリスに滞在できたのはOさんが本当に良くしてくださったからだ。ありがとうございました。 


1st mov. ハーブティーの効能 
(2nd mov. フランスでのチェロコース) 
(3rd mov. 前に住んでいた家に行った) 
Final mov. A Prom:ギル・シャハムと音楽の世界 
(2は前回の「チェロ日記」。3はここでは割愛) 


1st mov. ハーブティーの効能

私は寝る前にカフェインを摂っても睡眠に影響のない体質ということもあり、普段は朝も昼も夜も緑茶(中国茶含む)を飲んでいるし、ついでにいえばハーブティーなんてしゃらくさいと思っていたのでこれまで積極的に試したことはなかった。たまにルイボスティー、カモミールなど飲んでいた程度。でも、今回Oさんのお宅では様々な種類のハーブティーを頂いて、すっかり気に入ってしまった。 

まずは、美味しさ! 
ハーブティーは美味しくないというイメージがあったけど、最近のものは昔より美味しくなったのだろうか?それとも若い頃ひ○ねの喫茶店で飲んだ、煮出した毒色ペパーミントティーのトラウマからそう思い込んでいただけ? 今回飲んだものはどれも美味しかった。ある草のみを乾燥させて砕いたもの(シングル)も、いくつかの薬草をブレンドし、オイルを加えて作ってあるものも、独自の香りと味の残響がある。よく味わうためには、マグカップにティーバッグを入れてお湯を注いでから、茶葉が広がってオイルが十分拡散するまで数分間待つのが大事だそうだ。 

おおおっ美味しいと思ったのは、Dr. Stuart's というシリーズのDetoxというハーブティー。日本語のウェブには、「デトックスは、体内の老廃物の排出作用があり、血液や細胞組織の浄化に効果があります」とある。(溜まった毒を全部解毒してくれるなら何杯でも飲むよ...) 実際の効果のほどはわからないけど、これは甘みが強くて刺激が少ないので飲みやすい。タンポポの根、ゴボウの根、トウモロコシの絹毛、オオアザミ、生姜の根などちょっと奇妙なものがいろいろ入っている。普通に飲んでもかなり美味しいけど、日本で、水出しして氷を入れて飲んでみたらそれもとても美味しかった。家の人にも好評だった。 
日本でも取り寄せできます。ウェブサイトはこちら。 
http://drstuarts.shop-pro.jp/?pid=2074981 
http://drstuarts.shop-pro.jp/ 


そして、効能。 
ハーブティ(herbal tea)については様々な定義があるようだが、通常茶ノ木以外の植物(とくに消毒・殺菌、精神の安定など食用以外の効能が認められる植物)の葉、花、果実などを煎じた飲み物をさすらしい。 
スーパーマーケットのお茶コーナーに行くと、様々な種類のハーブティーが売られており、パッケージを見ると、それぞれ原材料名の記載とあわせて「安眠」「美容効果」「リフレッシュ」などその効能が書いてある。 

「リラックス」「トランキリティ」などいろいろ試したが、特に効いたという実感があったのは、Celestial(セレッシャル)というブランドのsleepytimeというハーブティー。「スリーピー」というだけあって、このお茶を寝る前に飲んだら、自然と眠くなってベッドに入ったらすぐに眠れた。ここ数ヶ月、日本では明け方まで眠れず、ぼーっとした頭で机に向かっていたことが多かったので、お茶を飲んだら眠れたのにはびっくりした。 
http://www.celestialseasonings.com/ 
「スリーピータイム」にはカモミール、スペアミント、レモングラス、ブラックベリーの葉、ローズバッドなどがブレンドされている。カモミールは不眠、不安、消化不良、食欲不振に、スペアミントは疲労、ストレス、神経性の緊張に効果があり、レモングラスには殺菌、消化促進に加えて疲れた心を回復させる、心を明るく高揚させる力があるとのこと。 
このお茶は、冷めても美味しい。何かを始めるとお茶を入れたことを忘れる人間にとってはありがたい。 
日本でも通販で取り寄せできます。セレッシャルのウェブサイトはこちら。とってもおすすめです! 
http://www.celestialjapan.com/ 

ところで、イギリスといえば紅茶のイメージがあるが、イギリス人がお茶を輸入して飲み出したのはここ350年くらいのことであり、それまではエールかサイダー(リンゴジュースで作った飲み物。通常アルコール飲料)か、ハーブを乾燥させて煮出したものを飲んでいたらしい。お茶がイギリス国民の飲み物として定着したのは1750年頃。お茶といっても紅茶ではなく、当時は粉緑茶または低級なウーロン茶だった。イギリス宮廷では、1662年にポルトガルから国王チャールズ2世に嫁いだキャサリン王妃の趣味でお茶を楽しむようになり、のちに上流階級にも広まって洗練されたイギリスの喫茶文化となった。1700年代後半になって発酵の度合いの高い紅茶(工夫紅茶)の生産が中国、インドでさかんになった。紅茶がイギリスに大量に輸入され、庶民にも普及したことは、サトウキビの輸入販売が拡大したことと密接に関係している。産業革命期には、アルコールのかわりにミルクと砂糖を入れた紅茶を飲むことが推奨されるようになった。ロンドンのコーヒー・紅茶博物館のウェブサイトには、紅茶を飲むようになって、人びとは工場での長時間労働に耐えられるようになったと書いてある。紅茶はイギリスの経済的・文化的発展において大きな役割を担っていたのだ。20世紀の初めにティーバッグが発明されて、人びとはますます手軽に紅茶を飲めるようになった。 
ハーブはというと、人類は有史以前から薬草を医療用、精神の治療用に用いており、薬草を煎じたものを薬として飲んでいた。中世ヨーロッパでは、修道院で病気の治療法の研究の一環として薬草の研究が行われていた。イギリスでは、1600年代にハーブの研究を熱心に行ったニコラス・カルペパーが、1649年、Pharmacopoeia という薬草書をラテン語から英語に翻訳して出版し、それまで医師の特権であり秘密であった薬草の知識を庶民にも広めた。現代では、ハーブの効能は広く知られており、美容、ダイエット、心身の鎮静、リラックスなど様々な目的にあわせたハーブティーが各種生産販売されている。 

ハーブティーの効能については、即効性を期待しすぎてもいけないが、ホントかねえと疑心暗鬼で飲むより、「ちょっと気分が落ち着かないからリラックスのお茶にしようかな」とか、「ローズヒップは美容に効果があるのかー。飲んだらちょっと美人になれるかも!?」と楽観的に思って(でも美容効果はむしろ願掛け)飲んだほうが良いことも、今回の発見であった。 

健康のためといって不味いものを我慢して飲んだり食べたりするのはかえって悪影響だと思うけど、美味しくて、しかもちょっと気分がほっとしたり、眠れたりするなら、ハーブティーはすごいと思う。 

(続く) 

 

ロンドンブリッジすぐ近くのコーヒー・紅茶博物館のウェブサイトはこちら。二回行ったことがあるが、地味ながらなかなかおもしろい博物館だった。 
http://www.teaandcoffeemuseum.co.uk/ 

参考にしたウェブサイト 
http://www.ayati.com/TEA/REKISI.HTM 
http://www.panix.com/~kendra/tea/tea_to_england.html 
http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_tea#United_Kingdom 
http://www.jp-greentea.co.jp/herb/kenko5.html 
http://www.herbpalace.com/alternative-medicine/herbal-medicine.html 
http://homepage2.nifty.com/toishi-a/culpepper1.htm