昨年は新たに、かぎ針編み、クロスステッチ、パッチワークに挑戦して、小さいものではあるが十数点を仕上げることができた。棒針編みではセーターを編んでいるが、こちらは未完成。
どれも本や動画を参照しながら見よう見まねでやってみたので、やり方がおかしいところもあるのだろう、×の数が図案と違ったり、編み目の数がわからなくなったり、ファスナーを上下逆につけていたことに出来上がるまで気がつかなかったりと、それぞれの作品に一つ以上はがっくりするミスがあった。それでも、作品として出来上がるとやはり嬉しい。工夫すべき点や今後の課題もはっきりする。そして、下手なりに一個一個完成させていくうちに、学び上達するものである。
刺繍を通して世界について考えるという体験も新鮮であった。刺繍には各国の伝統柄というのが必ずあるが、それぞれの図柄は、その国の人々にとって非常に身近なものを題材にしている。たとえばトナカイやノウサギをモチーフにした北欧のクロスステッチ、スイセンやアイリスの花を丁寧に再現したイギリスの刺繍など。
各国の刺繍図案を眺めたりモチーフについて調べたりしながら考えた:日常生活の中でなじみや愛着のあるもの・美しいと感じられるものを、刺繍でもって日々使うものの中に再現することは、それが存在する幸せや喜びを確かめるための人間の知恵なのだろうか。針を布地に通しながら、地道な作業に人を駆り立てるのは、綺麗なものの姿を手元に残しておきたいという焦燥感と欲望だろうかと思ってみたりもした。「欲」という言葉のイメージは刺繍の世界の可憐さにそぐわないようにも思えるけれど、肩は凝るし目も痛くなる作業が大好きという理由で人は古来から刺繍をしてきたのではないだろう。
刺繍も編み物も針仕事もひとりでする手作業なのだが、手を動かしているとどういうわけか「人のいとなみ」というようなことについて考えてしまう、そうすると孤独な作業ではなくなるのであった。
ところで、今年はまたチェロをやる。
ずっと、チェロが弾きたくてたまらなかった。
以前の日記に、編み目を揃える練習はチェロの練習に通じるところがあると書いたが、今年は手芸から学んだことをチェロの練習にも活かして、新しい方向性を探っていこうと思う。
細かい課題は色々あるが、大まかには、作品の大小に関わらずとにかく仕上げること、その完成を積み重ねることで次に進んでいくことを今年の目標としたい。
勉強と絵にもそれぞれ今年の課題を設けた。
時々、何を信じて生きていったらいいかわからなくなり、すごく混乱したり動揺したりしてしまう。自分の中に諦めと殺伐とした思いがあり、心に嵐が吹き荒れることがある。世の中も非常に不安定で、人々は寄って立つものを失くしてしまったように感じられる。でも理不尽なものに潰されるのは悔しい。自分自身には頼れるように、いろいろやってみよう。
2011年10月30日
ペケ・バツ・かける
今までは手芸といえば棒針編みくらいしかしていなかったのだが、今年はかぎ針編み、クロスステッチ、キルティングに挑戦してみた。
世界の風景シリーズのクロスステッチのキットを使って作ったのがこちら。
「ピサの斜塔」と「ノイシュヴァンシュタイン城」
ピサの斜塔のほうは、出来上がってからラミネート加工をして(といっても機械を使わずアイロンで…)栞にしてみた。もとの図案を多少変えてあるのだけれど、まあまあ、予想通りのものが出来上がった。
デンマークのクロスステッチの本を見ながら刺繍したのはこちら。
「りんごの花」
こちらは、本の図案はデンマークの刺繍家がデザインしたもっと渋い色合いなのだけど、手持ちの糸で刺繍したら、なんだか和風になってしまった。不思議だ。糸が日本製だからだろうか? それとも私が日本人だから??
そして、図案なしでハンカチに刺繍してみたのがこちら。
「チェロ」
図案なしで形を作っていくのはすごく難しかった。これはまだまだ勉強と工夫と修行が必要。
クロスステッチは、絵が出来上がっていく過程を少しずつ味わえるのが楽しい。作っているものに愛着もわくし、作っているうちにアイディアも出てくる。そして、xだけで出来上がる絵がなんだかアナログというかレトロな感じがして可愛いのもまた、クロスステッチの魅力なのだと思う。
世界の風景シリーズのクロスステッチのキットを使って作ったのがこちら。
「ピサの斜塔」と「ノイシュヴァンシュタイン城」
ピサの斜塔のほうは、出来上がってからラミネート加工をして(といっても機械を使わずアイロンで…)栞にしてみた。もとの図案を多少変えてあるのだけれど、まあまあ、予想通りのものが出来上がった。
デンマークのクロスステッチの本を見ながら刺繍したのはこちら。
「りんごの花」
そして、図案なしでハンカチに刺繍してみたのがこちら。
「チェロ」
図案なしで形を作っていくのはすごく難しかった。これはまだまだ勉強と工夫と修行が必要。
クロスステッチは、絵が出来上がっていく過程を少しずつ味わえるのが楽しい。作っているものに愛着もわくし、作っているうちにアイディアも出てくる。そして、xだけで出来上がる絵がなんだかアナログというかレトロな感じがして可愛いのもまた、クロスステッチの魅力なのだと思う。
2011年7月11日
編み目を揃える
かぎ針初心者から抜け出すには、難しいモチーフを編めるように練習するのと並行して、編み目をきちっと揃えられるようになることが不可欠だと(勝手に)思っている。趣味で独学でやっているとはいえ、こういうのはあまりおおざっぱではいけない。編み目がきれいに整っていなければ、いくら高級な糸を使っても、高度な編み図の作品を編んでも、出来上がったものはきれいには見えないだろう。
というわけで、基本の細編み、長編みを中心に、簡単なモチーフを綺麗に編んでいく練習をしている。イメージは、チェロのエチュード(セヴシックとかドッツァウアーとか)をやっているような感じで、あるの主題を一定のテンポを保ちつつ(できないからと言ってあまり遅くしすぎてはいけない)いろいろな音型に変えて練習するというもの。
さくさく編めるときもあるけれど、やはりまだまだ下手で、糸の引き抜きに失敗したり目が大きくなりすぎたりしてしまう。そういうときは、かぎ針を持つ手に力が入っていないか、座り方が悪くないか、チェックしてやり直す。集中力が切れたときには編み目ががたがたになるので、そういうときも糸をほどいてやり直し。難しい。
こうしてかぎ針の練習をしていると、チェロの練習をしているような気がしてくるのは不思議だ。チェロの練習方法を取り入れているだけで、両者はまったく違うもののように思えるのだけど。
*
習作を二つ載せてみる。
上の写真の左にある丸いのは、てっぺんを押すと、下の写真のようにへこむようになっている。けしごむとか、小さなアクセサリーとかを置くサイズ。右側のは、コースターにしてもいいけど、私は腕時計を置くのに使おうと思っている。どちらも100円ショップで売っている、トルコ製のエジプト綿100%の糸で作った。縁は二本取りにした。思ったよりも可愛らしい雰囲気になってしまったのがちょっと残念。。。
2011年6月26日
2011年6月16日
ハルジョオン
今回は、10歳の時に描いた「一輪挿しに挿した野の草」と同じテーマで描くことに決めていた。
工夫した点は二つ。
・この絵には白を使うことにした。小学校の時に野の花を描いたときに、当時絵を習っていた画家の先生から白の使い方を習ったから。先生の絵は白の使い方に特徴があって、雪景色を描いた絵などは、白の魔力とでもいうべき引力を持っていたのであった。
教えていただいたにもかかわらず、私はどういうわけか白を怖れていつもは使わないので、白い絵の具の蓋は完全に固まっており、それを開けるところから手間取ってしまった。でも、他の絵の具と混ぜて極細の筆でおそるおそる描いているうちに、案外悪目立ちしないものだという気がしてきた。今後は白も少しずつ使ってみようと思う。
・下地作りに時間をかけた。
カンバスは、Winsor and Newton のもの。大きな目地を真っ白に漂白してあるこのカンバスは、下塗りを一度した時点では、パンに液状の蜂蜜を薄く塗った程度の効果しかなく、目の粗さや白さが透けて見える状態であった。だから、表面が滑らかになるまで油で溶いた絵の具を、塗っては乾くのを待ち、塗っては乾くのを待つ、という作業を根気づよくやってみた。繰り返しとこの手の辛抱は私にとって苦痛ではないのでもどかしくはなかったが、乾くまでに部屋のほこりがついてしまうのには困った。何度も塗っているうちに光沢が出てきて、アンバーでおおまかな下絵を描く段階までには、それでひとつの単色の絵のようになっていた。絵の具が乾くにつれてカンバスの表情が変化していく様を毎日観察するのはとてもおもしろかった。
まだ出来上がったばかりで、今はただ嬉しくてほっとした気持ちだけ。
改善点は、今後絵の具が乾くうちに明らかになっていくだろう。
写真は、前回の隅田川の絵よりは実物に近いものが撮れたが、やっぱり何か違う。難しい。
一輪挿しは、4月に市内の陶芸工房の陶芸体験教室で作ったもの。実際のものには、五線譜の模様が彫ってある。この工房では、猫をテーマにした面白い焼き物をいろいろ作っている。
ハルジョオンがまだ咲いている間に完成してよかった。
さて、まもなく皆既月食が始まる。
2011年6月13日
2011年5月22日
「雨の隅田川」(油彩)
今年の2月に、一年くらい前に撮った写真をもとに、隅田川の風景の下絵を描いた。その後、少しずつ薄い色を重ねて、乾くのを待って、また色をのせて、という作業を繰り返して、昨日の夜中にようやく一段落した。実際はもっと暗いトーンなのだが、写真を撮ったら実物より明るくなってしまった。
*追記 2011/05/23 載せた写真が実物と随分違うので、昼間に撮り直し、差し替えました。
2011年3月20日
溶ける
数日前、すごく寒かった日の夜に、昨年描いた2つの絵にタブローを塗った。
画材屋さんでは、絵の具が完全に乾く前に塗れる保護液や速乾性のあるスプレータイプのワニスも見せてもらったが、今回は絵が描き上がってから半年以上経っているしどこかへ送る用もなし、何も急がないので、オーソドックスなクサカベのタブローを使うことにした。これはダンマル樹脂をテレピン油に溶かしたワニスで、独特の臭いがあるうえ、塗る時はけっこうべたべたする。タブローは光沢が強く出るので落ち着いた質感を求める絵には向かないといわれるが、塗ってみたらてかてかするほどではなく、色をつけたばかりの時の鮮やかさが蘇ったように思った。でも1日くらいは臭いので、暖かい日の昼間にやったほうが絶対に良い。
今日は新しい絵の下塗りをした。目の細かい麻の12号のカンバスを買って、何も描かずに部屋の壁に立てかけておいて、2週間くらい毎日眺めてたのであった。
大きい筆とぼろ布で下塗りをしているときは作業に集中していただけだし、これから描こうとしているのも抽象的なものではないのだが、作業を終え、お茶をいれておやつを食べながら眺めてみたら、ここ一週間くらいの間に自分が感じたさまざまのことが溶け込んでいるような気がした。
画材屋さんでは、絵の具が完全に乾く前に塗れる保護液や速乾性のあるスプレータイプのワニスも見せてもらったが、今回は絵が描き上がってから半年以上経っているしどこかへ送る用もなし、何も急がないので、オーソドックスなクサカベのタブローを使うことにした。これはダンマル樹脂をテレピン油に溶かしたワニスで、独特の臭いがあるうえ、塗る時はけっこうべたべたする。タブローは光沢が強く出るので落ち着いた質感を求める絵には向かないといわれるが、塗ってみたらてかてかするほどではなく、色をつけたばかりの時の鮮やかさが蘇ったように思った。でも1日くらいは臭いので、暖かい日の昼間にやったほうが絶対に良い。
今日は新しい絵の下塗りをした。目の細かい麻の12号のカンバスを買って、何も描かずに部屋の壁に立てかけておいて、2週間くらい毎日眺めてたのであった。
大きい筆とぼろ布で下塗りをしているときは作業に集中していただけだし、これから描こうとしているのも抽象的なものではないのだが、作業を終え、お茶をいれておやつを食べながら眺めてみたら、ここ一週間くらいの間に自分が感じたさまざまのことが溶け込んでいるような気がした。
2011年2月11日
2011年2月6日
紫の薔薇(もこもこ)
前からとってもやってみたかった、かぎ針編み。
かぎ針で作るかわいいアクリルたわしや、美しいかぎ針モチーフのショールなどを見るたびに、「むずかしいのかなー。きっとむずかしいだろうな。でも、わたしたわしが作りたい!(いつか帽子やストールも作りたい!)」とむずむずしていた。
で、昨日ついに手を出してしまった。
昨日、駅前通りで毛糸屋さんを見つけてしまって、入ってしまった。店内には、色とりどりの、いろんな手触りの毛糸がいっぱい。そして、アクリルたわしの本も何冊も。河馬とかライオンとかの猛獣のたわしに心惹かれる。赤ずきん束子(!)の作り方が載っている本もあった。でも河馬や赤ずきんは私にはあまりにも難易度が高そうだったので、まずは家で基本の編み方をやってみて、なんとかなりそうな気配だったら本を買うことにした。安いアクリルの紫の毛糸を買ってお店を出た。かぎ針は、もうずっと前に買って引き出しに仕舞ってある。。。
家に帰ってかぎ針編みの基礎やデザインの型紙を検索したら、「アクリルたわし」で約15万6千件も出てきた。「可愛いたわし」作りたい人、作ってる人が日本中にたくさんいるんだな(Google UKでも、kitchen scrubbing knitting 等の検索ワードでいろいろ出てくるけど、正方形のものが多いし、動物の形のもほとんどなかった)。
いくつか初心者向けの動画やウェブサイトを見たが、ハマナカのかぎ針編みの動画がとてもわかりやすかった。数回じっくり観察して、ゆっくり再現してみただけで、超初心者の私の手の中の毛糸にも編み目ができていく、すごい動画。うちにある毛糸で、細編み、長編み、輪の作り目などなど2時間ほど練習。
今日も、休憩時間にちょこちょこと練習。棒針よりも小さいスペースで作業できるのが楽しい。地味な手作業の積み重ねで一本の毛糸が徐々にある形をとっていく、その過程が心を穏やかにしてくれる。外で、風がびゅうびゅういっている。でも家の中では、作業についての私のひとり言と、編み針が毛糸にひっかかる音しかしない(いろいろ間違えるのでひっかかる)。こうしていると、車の音にも、もう何かを期待しないですむ。
写真は、初めてのかぎ針編み作品。河馬のたわしの本を買う日までがんばろう。勉強もがんばる。
かぎ針で作るかわいいアクリルたわしや、美しいかぎ針モチーフのショールなどを見るたびに、「むずかしいのかなー。きっとむずかしいだろうな。でも、わたしたわしが作りたい!(いつか帽子やストールも作りたい!)」とむずむずしていた。
で、昨日ついに手を出してしまった。
昨日、駅前通りで毛糸屋さんを見つけてしまって、入ってしまった。店内には、色とりどりの、いろんな手触りの毛糸がいっぱい。そして、アクリルたわしの本も何冊も。河馬とかライオンとかの猛獣のたわしに心惹かれる。赤ずきん束子(!)の作り方が載っている本もあった。でも河馬や赤ずきんは私にはあまりにも難易度が高そうだったので、まずは家で基本の編み方をやってみて、なんとかなりそうな気配だったら本を買うことにした。安いアクリルの紫の毛糸を買ってお店を出た。かぎ針は、もうずっと前に買って引き出しに仕舞ってある。。。
家に帰ってかぎ針編みの基礎やデザインの型紙を検索したら、「アクリルたわし」で約15万6千件も出てきた。「可愛いたわし」作りたい人、作ってる人が日本中にたくさんいるんだな(Google UKでも、kitchen scrubbing knitting 等の検索ワードでいろいろ出てくるけど、正方形のものが多いし、動物の形のもほとんどなかった)。
いくつか初心者向けの動画やウェブサイトを見たが、ハマナカのかぎ針編みの動画がとてもわかりやすかった。数回じっくり観察して、ゆっくり再現してみただけで、超初心者の私の手の中の毛糸にも編み目ができていく、すごい動画。うちにある毛糸で、細編み、長編み、輪の作り目などなど2時間ほど練習。
今日も、休憩時間にちょこちょこと練習。棒針よりも小さいスペースで作業できるのが楽しい。地味な手作業の積み重ねで一本の毛糸が徐々にある形をとっていく、その過程が心を穏やかにしてくれる。外で、風がびゅうびゅういっている。でも家の中では、作業についての私のひとり言と、編み針が毛糸にひっかかる音しかしない(いろいろ間違えるのでひっかかる)。こうしていると、車の音にも、もう何かを期待しないですむ。
写真は、初めてのかぎ針編み作品。河馬のたわしの本を買う日までがんばろう。勉強もがんばる。
2010年9月20日
2010年5月19日
日課としての縄跳び
毎日12〜15時間くらい机に向かっているので腰が痛い。それに、少しは体を動かしていないと気持ちが沈んで辛いので、昨晩から夕食後に5分間縄跳びをすることにした。
日課が増えすぎるのはよくないのだろうが、いまは、ピアノとチェロをあわせて毎日1時間くらい、図画工作を眠気の強い夕方と、どうしても辛くなったときに少しずつやるようにしている。それに縄跳びを5分追加した。
チェロは、体の力を抜いて弾くことに加えて、自分の音をよく聴きなさい、どんな音を出しているか、どんな音を出したいのか、よく考えてよく聴きなさい、と先生にいつもいわれてきた。自分の音を聴けるようになる、そして弾くことと聴くことのギャップを埋めていくというのが今年の最大の目標なので、とにかく肩、肘、指、手首、腹、胆、足などいろいろなところに意識を向けつつ、音がどう変わるか、変な表現だが耳にも目を向けて練習している。私は、理想とする音楽が自分の中にあって、心の中で歌っていると自分がオーケストラのジュークボックスになったようで幸福を感じるのだが、チェロに関しては、ただテープを聞かされてそれを真似てきた経緯があるためか、理想の音楽の輪郭がぼけていることが多いことがわかってきた。そして、「こういう音楽にしたい」ということが明確にわかっていないと意識を向ける方向を間違うということもわかってきた。それにしても、実際少しでも思いどおりの音楽ができると、幸福に他ではちょっと味わえない嬉しさが加わる。我ながら安い趣味だなあ。
チェロの練習はたいてい録画してあとで復習している。この1年と少しの間に無心で練習することはなくなったが、録音したものを聞いてみると、やはりすべての音に神経が行き届いてはおらず、意味のない無神経な音を出している。あとから聞くと、どの音やフレーズに意識が注入されているかそうでないか、非常に良くわかる。自分の音を集中して聞きながら、然るべきテンポではじめから終わりまで弾き通せていることは、まだあまりない。ああ、もっと上手くなりたい。
チェロの練習はたいてい録画してあとで復習している。この1年と少しの間に無心で練習することはなくなったが、録音したものを聞いてみると、やはりすべての音に神経が行き届いてはおらず、意味のない無神経な音を出している。あとから聞くと、どの音やフレーズに意識が注入されているかそうでないか、非常に良くわかる。自分の音を集中して聞きながら、然るべきテンポではじめから終わりまで弾き通せていることは、まだあまりない。ああ、もっと上手くなりたい。
ピアノは、愛の挨拶を弾いている。春に聴いたチッコリーニの演奏が自分の中にスタンダードとして刻み込まれた。音楽にしかできない所作のきわめて高貴なすがたがあった。あれはあの瞬間にあの人にしかできない愛の挨拶だったのだ。あんなふうに、聴く人の心にすっと入りこんで幸せを残していってくれる演奏ができたら、どんなに素晴らしいだろう。
私もそういうふうでありたい、そう思いながらじっと弾いている。とても楽しい。録音してみたが、下手なりに、こだわりという名の味が感じられる。下手の横好きとはよくいったものだ。
絵は、川を描いている。絵は、頭の中にある描くべきものに一直線に向かって手を動かしているだけなので楽だし、描こうとしているのが何か特殊な概念構築物でもなんでもないただの川だからか、しばらく後には気が休まっている。
そして、縄跳び。夜風に当たりながら、ただぴょんぴょん跳ぶのは気持ちがいい。しかし、1分と続かないうちにひっかかってしまう。なんとか3分くらいまで持っていきたい。
2010年4月12日
祈り
*小林秀雄と岡潔の対談『人間の建設』新潮文庫、2010より
岡潔は仏教を深く信仰しており、小林秀雄との対談の中でも物事の説明をするのに幾度も仏教の用語を用いている。
「無明」は、仏教用語で、人の迷いや醜い面のことをいう。岡潔によればピカソは、無明を描く達人であったということだ。しかし、ピカソの絵はおもしろいかもしれないが、人をくたびれさせる。長く見ていられるものではない。それはどうしてかというと、「無明」を「美」だと思い違えているからだ、と岡潔は言う。そして、もっといえばその「無明」すなわち人間の迷いや煩悩を描くことが「個性」だと思い込み、その個性こそが芸術であると威張っている現代(この対談が行われたのは昭和40年)の芸術文化の潮流に懸念を覚えているという点において、小林秀雄は岡潔に深く同意している。つまり、絵描きと対象物が敵対関係にあるような状態では、神経のいらだちを画面に上手く出せば出すほど個性があるということになる。するとおもしろい絵はかけるかもしれないが、それは美ではなく、個性というのもそういうものではない。無明を描いて平和を唱えても、平和になるはずもない、というのである。そうはいっても、対談の後半では、無明をあれほどまでに描けるということは、無明をそれほどまでに知っているということであり、無明をよく知らなければ良いほうのこともよくわからないかもしれないと思えば、ピカソやドストエフスキーは無明の達人である。彼らのおかげで無明ということがひとはよくわかるのだ、と二人は先の芸術家たちを評している。
無明を押さえられれば、人はやっていることがおもしろくなる、と岡潔はいう。では、無明を押さえるにはどうしたらいいか。 「数学を熱心に勉強するということは我を忘れることであって、根性を丸出しにすることではありません。無我の境に向かわないと数学になっていかないのです。」というのは、数学については私はわからないが、自分の身近なことについてであれば、わかる。絵を描いているとき、大切な文章を書いているときに、いやなことや悲しいことを考えていては、かいているようでいて何もしていないのと同じで、絵も文も仕上がってはいかない。本当に集中しているとき、考えていることは、極めて抽象的ながら対象がはっきりしているゆえに言語化を全力で試みるのが楽しくて仕方がないものであり、そういうときは、お腹がすいたとか雨が降ってきたから洗濯物をとりこまなくちゃとか母が呼んでいるというようなことはいっさい気がつかなくなる。そうして何時間が経ち、ふっと気がついたときに、私は「ああ、戻ってきた」と思う。そういうとき何を考えていたかを説明するのは困難であるし(私にしかわからない言葉で考えているし、説明する必要もないと思っている)それが無我の境とまでいっていいものかはともかく、我を忘れるとはそういうことだ。チェロの練習や絵を描くときや粘土、木彫りなどをしているときにも、「あ、わかった」「ああ、できた」と知るのは我を忘れて全情熱を費やしたときのみであり、根性を出して頑張ろうとしてしまうとそれは練習や作品作りとは呼べないのである(でも、ただ頑張ってしまうことは、よくあるんだけども。)また、たとえばじっと長いこと雨の音を聞く。そうするとだんだん我を忘れて雨の音がおもしろくなってくる、その心の作用は私にもとてもよくわかる。(この対談の中には良寛は冬の雨の音を聞くのが好きだったというエピソードが出てくる。)それも無明を超えてこそ知るものであろう。私などは日々悶々と思い悩む無明のかたまりのようなものだが、それを超えた先に何があるかについて、知っていることもある。この確信は、自分を信じられるというのとほとんど同義と言ってよいだろう。であるから、我を忘れる世界に居る時間を長くして大きなことをやり遂げたいものである。達すれば二つの世界のように思えているものがひとつになる桃源郷があるかもしれない。
岡潔はまた、「愛と信頼と向上する意志」の三つが人間の中心となると言っている。共感、というのではいい足りない、とても心に沁みる言葉だ。無明を押さえ、自然の有り様や本当に美しいものを知り、岡潔のいう意味での個性を発揮するには、この三つは不可欠だという気がする。この本は、二週間ほど前に名古屋で出会って、電車の中で読んだ。二人の巨人の言葉は、それぞれに質感があり、ひとつの言葉にも豊かな感情がある。涙なしには読めなかった。 昨日また読んだ。所々、声に出して読んだ。声に出して読みたい本には、しょっちゅう出会えるものではない。枕元に置いて寝る前に手に取れるようにしてある。
人とって何が幸せかはみな違うわけだが、それであってもすべての人に幸せが舞い降りて、心が軽くなるといいと思う。
「祈り」/紙粘土
それにしても紙粘土はバランスをとるのが難しい。彫刻をやりたい。
2010年4月8日
リサイタルの絵
イギリス生活の最後には、それまで出会った人たちへの感謝の気持ちを込めて、自宅でリービング・パーティー&展覧会を開いた。
この家は借りるにはなかなか苦労した(学生の私には高額なデポジット、要求されたたくさんのリファレンス)し、とくに面白い町にあるのでもなかったが、がんばって借りたかいのある、とてもいい家だった。イタリア人大家さんの趣味で、あの広さの家にしては素晴らしいキッチンがあり、イギリスに来たきょうだいに温かいごはんを作ってあげられたし、三人で住んでいた間は、二人でいるときよりもっと、数々の美味しい料理を皆で楽しく食べた。静かで落ち着いた環境だったので、普段はキッチンのテーブルで、天気のいい日にはかわいい庭でたくさん本を読み勉強したし、自分にとって重要なものも二つ書いた。また、時間や周りを気にせずかなり自由に音が出せたので、チェロやフルートは意義ある練習ができて上達したとも思う。たくさんの友人がお茶に寄ったり、ごはんを食べにきたり、合奏しにきたり、泊まりにきたりし、昨年末にはもうひとり来て楽しいクリスマス&お正月を過ごした。
家の思い出を語るのに、階下のフランス人のお姉さんを忘れるわけにはいかない。明るくて、陽気で、思いやりのあるお茶目な人で、私たちは彼女の存在に随分元気を貰ったものだ。
つい懐かしくて前置きが長くなってしまったが、昨日ようやく完成した絵は、この家のリービングパーティー&展覧会に向けて描いたのである。題名は、「リサイタル」。チェロとピアノによるリサイタルの会場を描いた。それは、とてもいいコンサートだった。80人くらいお客さんが来て、会場に人が入りきらず、多くの人は立って聴いていた。でも誰も文句もいわず、皆が演奏を楽しんでいた。チェロは明るく華やかでピアノは力強く、春一番が吹いたような清々しいコンサートだった。ブラームスのチェロソナタ第1番とブリッジの Spring Song の演奏をとくに今もよく覚えている。
そのときの写真と会場の雰囲気の記憶をもとに描いたのがこの絵だが、イギリスで展示をしたときにはまだ完成したような気がしていなかった。主には、チェロの色と形が思ったように出せず、不満だったのである。
そのチェリストには、感謝している。簡潔にいえば、彼に出会って人生が楽しくなった。厳しいことを言われて落ち込んだこともあるけれど、チェロも、語学その他の勉強も楽しくなったし、なにより存在そのものが、自分の殻に閉じこもっていた私の内面を大きく拡げてらくに呼吸できるようにしてくれた。
日本に帰ってこの2ヶ月の間に、絵は思っていたよりも傷んでいた。二日かけて全部の箇所に手を入れて修正をし、チェロを描き直して完成とした。絵のトーンが全体に暗くなってしまったのはいまの気持ちの有り様が出たのだが、ともあれ完成したことは素直に嬉しい。
あの家ではこれ以外にもたくさん絵を描いた。それぞれ厳しい時期ではあったのだけど、イギリス生活の最後に、支えあって明るく穏やかな気持ちで暮らせたことが、いまも自分の強さになっていると感じる。一緒に暮らした二人にとってもそうであることを願って止まない。
*この絵はその後もう一度手を入れ、プロフィール写真に載せてあるものになっています。
*この絵はその後もう一度手を入れ、プロフィール写真に載せてあるものになっています。
2010年4月5日
チェロと猫

題名は、「チェロと猫」。携帯電話のカメラで撮影したので画像が悪いが、猫は、東京にこういう感じの黒いのがいたのだ。女性のほうは、どういう人物を作るかが頭の中ではっきりしていたので、そのままを形にした。問題はチェロ。以前チェロの絵を描いていたときに、(このブログのプロフィールに載せている絵)「チェロの絵を描いていて思う。チェロについて知らないことばかりだ。」と書き込みをしたことがあるが、粘土でも同じことを思った。

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