2011年11月18日

らくがき帳

普段、自分の勉強用に、ノートの他にらくがき帳を使っている。らくがき帳は便利だ。安いし、大きさもちょうどいいし、真っ白な紙に思いついたことを書いて、いらなければ破って捨てられる。何より、きちんと書かなければという気持ちの制約が取り払われ、勉強が作業になるのを防いでくれる。

このらくがき帳だが、子どもと接する時にも大変便利なものである。
私はこれまでたくさんの子どもに勉強を教えてきたが、個人指導を行う際に、らくがき帳は万能の仕事道具だと思っている。幼児から高校生まで、授業時の板書のかわりや計算用紙として使えるし、説明を書いたページをそのまま生徒にあげることもできる。筆談もできるし、子どもが退屈すれば、一緒に落書きをしたり、破って紙飛行機を作ったり折り紙をしたりもできる。子どももらくがき帳だと気軽に感じるらしく、絵の苦手な子でも表紙の動物の絵に眉毛を描いたりするし、すごく真面目な子でも、休憩中に横から手を伸ばして私の描いた絵に角を生やしたりしてくる。らくがき帳の懐の深さは、子どもとコミュニケーションをとるのに大変な威力を発揮するのである。

らくがき帳はまた、口でいくら説明してもほとんど理解できない子や、思っていることを喋れない子と接する際にも大変有効である。授業または面談中、ほとんど何もしゃべらずとも、一緒に図や絵を描いたりしているうちに、その子が何らかの方法で、学習すべき内容を理解したということがよくある。そして、さらに重要なことは、子どもが気楽な気持ちで描いた絵や文字から読み取れる情報には、会話や子どもの表情だけでは見過ごしてしまったかもしれないサインが多く含まれているということだ。たとえば、とても素直でいつもニコニコしていて成績も優秀な子が血の滴る人の絵を描いたことがあるが、こういうのは自分がその子を一面的にしか見ていなかったのかもしれないと気づかされるのに十分な情報である。

もちろん、らくがき帳が使いやすいというのは、私の性質に合っているからで、人に無理にすすめするつもりはない。私は絵を描くのも好きだし、自由度の高いものをいろいろな方法で使ってみることも大好きだ。先に述べたように自分の勉強用にもらくがき帳を使っているのである。それに、子どもの細かい感情の機微を言葉や表情から感じ取って、子どもが言ってほしいと思っているであろう言葉をかけるのは苦手だが、らくがき帳を使って子どもに語りかけたり気持ちををほぐしたりすることならできる。だから長年これを仕事道具にしているのである。

このようにらくがき帳にはこれまでにだいぶお世話になってきたが、最近、また新たならくがき帳の凄さを知った。今年に入って、生きづらさを抱えて苦しんでいてその苦しみのために日常生活にも支障のある子どもと接する機会を少しずつ持っているのだが、興味深いことに、ある子どもが描いた絵が私のらくがき帳に残っていると、まったく別の子がおもしろがってその絵にコメントしたり、付け加えをしたりすることがとてもよくあるのだ。それぞれの子どもは年齢も学校も違うし、性格も抱えている問題も違うし、何よりまったく接点はないのに、他の子が描いたものに興味を持つらしい。私は特に意識せずどの子と会うときも同じ一冊のらくがき帳を持っていっていたのだが、これは発見であった。しかも、私は誰が描いたともどんな子かとも言わないが、そもそもそんなことを聞かれたことがほとんどないのだ。彼らは描かれたものに興味を示すのであって、どんな人が描いたのかはとくに重要でないらしい。互いに知らない子どもたちが、一つの絵をどんどん改造したり、セリフを書いたりする。一応、「このらくがき帳に描いた絵は、他の子が見たり書き加えたりすることもあるよ。嫌ならそのページは私が別にとっておくね」と言うようにしているが、こだわりの強い子でさえ、自分の絵に何か付け足されたりしてもほとんど気にならないようだ。怒るどころかむしろ喜ぶことも多い。ちなみに私の描いた力作ムーミンは、数人の子の手を経て、長いしっぽが生え牙が生え眉毛が生え目が血走ってユーモラスな怪物になってしまった。というわけで、あまりに残酷な内容や手記のようなものが書かれていればもちろん切り取って別にしておくが、互いに知らぬ子同士が一種のコミュニケーションをとっているのが興味深く、最近では、落書きやイラストのようなのはむしろ残しておくようにしている。

やはり同じ子ども同士、どこかの子が自分と同じように生きづらさを抱えながらもこうやって落書きしているということに、何か安心を覚えるのかもしれない。

2011年10月30日

ペケ・バツ・かける

今までは手芸といえば棒針編みくらいしかしていなかったのだが、今年はかぎ針編み、クロスステッチ、キルティングに挑戦してみた。

世界の風景シリーズのクロスステッチのキットを使って作ったのがこちら。
「ピサの斜塔」と「ノイシュヴァンシュタイン城」



ピサの斜塔のほうは、出来上がってからラミネート加工をして(といっても機械を使わずアイロンで…)栞にしてみた。もとの図案を多少変えてあるのだけれど、まあまあ、予想通りのものが出来上がった。


デンマークのクロスステッチの本を見ながら刺繍したのはこちら。
「りんごの花」



こちらは、本の図案はデンマークの刺繍家がデザインしたもっと渋い色合いなのだけど、手持ちの糸で刺繍したら、なんだか和風になってしまった。不思議だ。糸が日本製だからだろうか? それとも私が日本人だから??

そして、図案なしでハンカチに刺繍してみたのがこちら。
「チェロ」



図案なしで形を作っていくのはすごく難しかった。これはまだまだ勉強と工夫と修行が必要。


クロスステッチは、絵が出来上がっていく過程を少しずつ味わえるのが楽しい。作っているものに愛着もわくし、作っているうちにアイディアも出てくる。そして、xだけで出来上がる絵がなんだかアナログというかレトロな感じがして可愛いのもまた、クロスステッチの魅力なのだと思う。

2011年9月6日

『マリー・キュリーが考えたこと』

以前の日記で原発関連図書のリストにあげた、高木仁三郎著『プルトニウムの恐怖』について、 

『決して感情的に書いているわけではないのに、この人がプルトニウムのおそろしさを心底知っていること、それを平和利用という名目で利用することのリスクを一人ひとりに考えてほしいと願っていることが、しんしんと伝わってくるのです。こういう人たちの言葉ににじみでている、人間としての優しさと勇気と専門家としての使命感が、私のような素人にも、もっとこの問題について勉強しなくてはと思わせてくれているような気がします。』 

と書いた。この本は、3.11直後に古本屋さんで題名だけで買った(店外に置かれたスチール棚の一番下の段で砂埃をかぶっていた。105円だった)ものだが、この著者とこの著書に巡り会えたことは私にとって幸運であった。原発問題についての図書はいまや雨後の筍の如く大量に出版されいて、その中のごく一部の本しか読んではいないが、おすすめを一冊、と言われれば『プルトニウムの恐怖』をまず挙げたい。今年読んだ本の中では「心底考えさせられた本」第一位、「これからも折に触れて読み返したい本」第一位である。 

…とこのように大絶賛している高木仁三郎氏の『プルトニウムの恐怖』だけど、さっき読み終えた氏の別の著書もまた、味わい深いものであった。 
それは、『マリー・キュリーが考えたこと』という本で、1992年に岩波ジュニアから出版されたもの。 

これは、いわゆる子ども向け偉人伝『キュリー夫人』とは毛色の違う本で、伝記部分もあるのだが、あくまで高木氏の視点からみた科学者マリー・キュリーを描いているところが特徴的である。 

本の構成も変わっている。第一部では、ポーランドに産まれた彼女の40歳までの人生の軌跡を、時代背景を踏まえつつ、家族や最愛の夫ピエール、娘たちとの細やかな愛情のやり取りに焦点を当てながら描き、第二部では、「もし自分が天国のマリー・キュリーと対話ができたら」という設定で、高木氏の想像による(!)二人の対話を書いている。 

岩波ジュニアから出版されていることからも明らかなように、この本は子ども向けに書かれたものであるが、優れているのは、「やっぱ天才は私なんかとは違うわー」とは読者に思わせないところだと思う。「こんなに天才で頭の良い科学者がいたんだよ、彼女はこんなに偉大だったんだよ」という書き方ではなく、むしろ、マリー・キュリーという人が、輝かしい功績の陰で多くの苦しみを抱えながらも(19世紀後半にポーランドに産まれたことからして苦難の一部は想像されるが、それだけでなく、パリに行ってからも、夫を早くに亡くす、ノーベル賞を得てからも様々な嫉妬や批判を受けるなど数々の辛い思いをしている。また、放射能のせいで身体の不調にも生涯悩まされていたそうだ)自然や自分の周りの人々を愛し、希望を持って強く生きた一人の人間であったということを強く感じさせる語り口になっているのだ。高木仁三郎という人は、マリー・キュリーに心酔していたようで、ご自身の科学者としての存在意義を考えるにあたって、彼女の生き方に随分影響されるところがあったようだ。そして、第2部では、大胆にも、自分が天国のマリーと話ができたら、という設定で、想像上の対話をしている。対話の中で、高木氏は、ピエール・キュリーのノーベル賞受賞講演の一部分を何度も引用し、その言葉について、現代(1900年代後半)の科学技術のあり方について、マリーに多くの質問を投げかけている。 

その言葉を引用してみる。 
「犯罪人の手にはいれば、ラジウムは、きわめて危険な物ともなりかねません。そのことに関連して、われわれは、いったい人間が自然の秘密を知ることによって利益があるのであろうか、いったい人間は自然の秘密を知って善用することができるほど成熟しているのであろうか、あるいはまた、このようなことを知ることは人間に有害なのではあるまいかと、いちおう疑ってみることができます。ノーベルの諸発見こそは、この問題にとってもってこいの例であります。すなわち強力な爆薬は人間に感嘆すべき大事業を可能ならしめたのでありました。一方これらの爆薬は、諸国民を戦争に引きずり込むような犯罪者の手にかかれば、恐ろしい破壊の手段ともなるのであります。がわたしはノーベルと同じように、人間は新しい発見から、悪よりも、むしろより多くの善を引き出すであろうと信じる者のひとりであります」(マリー・キュリー著『ピエル・キュリー伝』、高木仁三郎著『マリー・キュリーが考えたこと』130ページ) 

「いったい人間は自然の秘密を知って善用することができるほど成熟しているのであろうか」という問いは、高木氏が何度となく自分自身に問いかけてきたものなのであろう。もちろんこの第2部は高木氏の想像であり、そのことははっきり断ってあるが、ヒロシマ・ナガサキ、チェルノブイリ、その他科学技術(とくに核の技術)の利用によって地球の生物に破滅的な影響を及ぼした事項について、マリーと対話をしながら、高木氏はこの根源的な問いへの答えを探そうとする。天国のマリーは、科学技術が地球の生命を脅かすのに使われている20世紀後半の世界を憂いていて、「アインシュタインも、オットー・ハーンら他の科学者も、天国でいまも苦しんでいるのです」と語る。熱が入ったところは、マリーのせりふという設定で書かれているとはいえ、もはや独り語りのようになっているが(そこがまたいい!)、少年少女にもぜひ科学技術の利用について考えてほしいと考えている氏の深い思いが伝わってくる。 

読んでみようと思う方がいるかもしれないので、これ以上は書かないが、この対話の中の、いまや「X(エックス)がちがってきた」という部分は、『プルトニウムの恐怖』にまっすぐに通じる高木氏の主張の根本となるところと思われる。エックスというのは、レントゲンを発見したレントゲンが、謎に満ちたその光に与えた名前である。「科学技術が高度に発展した現在、我々は、自然の秘密を探ることだけではすまなくなっている。」と彼は書いている。ではいま、科学者が、いや、我々地球に住む人一人ひとりが探っていかなくてはいけないエックスとは…? 

とても美しく、読みやすい文章で書かれています。おすすめです。

2011年8月12日

お茶お茶お茶

暑い日が続いている。作り置きのお茶の減りが早い、はやい。
水筒に入れる分も必要なので、日によっては二度沸かしている。6月にちょっと奮発して買った大きめの冷茶ポットが大活躍! 緑茶かほうじ茶か麦茶、最近では万能茶という、はと麦やどくだみなど16種の草が入った健康茶をお鍋で沸かして飲んでいる。
あまりに暑くてかなわないので日中は作り置きの冷たいお茶を飲んでいるのだが、夜には温かいハーブティーか緑茶を飲むことが多い。

この街は日中は日差しが強くて肌が焦げるような暑さなのだが、夜10時を過ぎると気温も23度前後となり、窓を開けて扇風機をまわしていれば、まあまあ涼しい。勉強したり本を読んだり絵を描いたりしていると、様々な夏の虫の鳴く声などが風に乗って部屋に入ってきて、ふと肩の力が抜けて穏やかな気持ちになる。そういう時にはあまり、キンキンに冷えた麦茶を飲もうという気にはならない。好きなカップと好きなコースターを選んで温かいお茶をいれるほうが、より深く、良い時間を過ごせるような気がする。

ハーブティーは、昨年イギリスでお友達に教えていただいてすっかり好きになり、その後もいろいろな種類を楽しんでいる。どれも美味しいし、気持ちが落ち着く。元気になったのはハーブティーのおかげもあると思っている(美容効果のほどは不明)。

さて、あるピアニストのお母様から教えていただいた、ドイツのDallmayrの ’Tulsi Ingwer/ Orange’ というお茶が素晴らしい。トゥルシーというのはインドに多く生えているシソ科の植物で、ストレスを軽減する・頭痛や胃痛を和らげる等様々な効能を持っているため、何千年もの間アーユルヴェーダの治療に用いられてきたのだそうだ。また、ヒンズー教のヴィシュヌ神崇拝の儀式には欠かすことのできない神聖な薬草だという。なんだか全身の悪い部分に効き目がありそうである。その効能はさておき、このお茶にお湯を注いだときにマグカップから立ち上る香りの素晴らしさは、芸術を感じさせるほどである。美しい香りと色をみれば、多くの人のストレスの少なくとも一つは霧散するであろう。おすすめいただいた時は、なぞの薬草とショウガとオレンジという組み合わせに、「ううむ、ものは試し…」などと半信半疑だったのだけれど、実際にいれてみたら、飲む前から香りと見た目に感動し、飲んでさらにうっとりしてしまった。

それから、美容に効果があると言われるローズヒップ。これは去年気に入ったお茶の一つなのだが、体質に合うのか、飲むと身体があたたまってリラックスできる。ハイビスカス入りのものは濃厚なピンクの色が美しい。美容のためと思って飲んでいるわけではないが、美容費として家計に計上するとすれば、出費の多い方から二番目には入るであろう。それほど気に入っている。

さらに、デトックスのお茶では、Dr. Stuartのものの他に、イギリスのPukka(パッカ)というメーカーのハーブティーがとても美味しい。これは、アニスシード、フェンネルシード、カルダモンシード、コリアンダーシード、リコリス、セロリシードと、種子だけをブレンドした、ちょっとスパイシーな、でもさわやかな風味のお茶である。日本では一箱ティーバッグ20袋入りで800円以上もして、滅多に買えないのが残念。現在は「pure」という名前になっているようだ。

こうやって、暑さが和らいだ夏の夜に美味しいお茶を飲みながら作業をしているというのは、見方によっては寂しいのだろうけど、別の角度から見れば、まあ幸せなんじゃないかという気がする。少なくとも、どれほど暑かったかという記憶が全くない昨年に比べたら、苦しくても、生きている実感があるだけましだと思える。


2011年7月11日

編み目を揃える




かぎ針初心者から抜け出すには、難しいモチーフを編めるように練習するのと並行して、編み目をきちっと揃えられるようになることが不可欠だと(勝手に)思っている。趣味で独学でやっているとはいえ、こういうのはあまりおおざっぱではいけない。編み目がきれいに整っていなければ、いくら高級な糸を使っても、高度な編み図の作品を編んでも、出来上がったものはきれいには見えないだろう。
というわけで、基本の細編み、長編みを中心に、簡単なモチーフを綺麗に編んでいく練習をしている。イメージは、チェロのエチュード(セヴシックとかドッツァウアーとか)をやっているような感じで、あるの主題を一定のテンポを保ちつつ(できないからと言ってあまり遅くしすぎてはいけない)いろいろな音型に変えて練習するというもの。
さくさく編めるときもあるけれど、やはりまだまだ下手で、糸の引き抜きに失敗したり目が大きくなりすぎたりしてしまう。そういうときは、かぎ針を持つ手に力が入っていないか、座り方が悪くないか、チェックしてやり直す。集中力が切れたときには編み目ががたがたになるので、そういうときも糸をほどいてやり直し。難しい。
こうしてかぎ針の練習をしていると、チェロの練習をしているような気がしてくるのは不思議だ。チェロの練習方法を取り入れているだけで、両者はまったく違うもののように思えるのだけど。

習作を二つ載せてみる。

上の写真の左にある丸いのは、てっぺんを押すと、下の写真のようにへこむようになっている。けしごむとか、小さなアクセサリーとかを置くサイズ。右側のは、コースターにしてもいいけど、私は腕時計を置くのに使おうと思っている。どちらも100円ショップで売っている、トルコ製のエジプト綿100%の糸で作った。縁は二本取りにした。思ったよりも可愛らしい雰囲気になってしまったのがちょっと残念。。。

2011年6月26日

もしゃもしゃの毛の猫



雨宿りしようと寄った手芸屋さんでセールになっていた毛糸で作った猫。
かぎ針にも慣れてきて、2時間くらいでできてしまった。

2011年6月16日

ハルジョオン



ハルジョオンの絵を描いた。

今回は、10歳の時に描いた「一輪挿しに挿した野の草」と同じテーマで描くことに決めていた。


工夫した点は二つ。

・この絵には白を使うことにした。小学校の時に野の花を描いたときに、当時絵を習っていた画家の先生から白の使い方を習ったから。先生の絵は白の使い方に特徴があって、雪景色を描いた絵などは、白の魔力とでもいうべき引力を持っていたのであった。
教えていただいたにもかかわらず、私はどういうわけか白を怖れていつもは使わないので、白い絵の具の蓋は完全に固まっており、それを開けるところから手間取ってしまった。でも、他の絵の具と混ぜて極細の筆でおそるおそる描いているうちに、案外悪目立ちしないものだという気がしてきた。今後は白も少しずつ使ってみようと思う。

・下地作りに時間をかけた。
カンバスは、Winsor and Newton のもの。大きな目地を真っ白に漂白してあるこのカンバスは、下塗りを一度した時点では、パンに液状の蜂蜜を薄く塗った程度の効果しかなく、目の粗さや白さが透けて見える状態であった。だから、表面が滑らかになるまで油で溶いた絵の具を、塗っては乾くのを待ち、塗っては乾くのを待つ、という作業を根気づよくやってみた。繰り返しとこの手の辛抱は私にとって苦痛ではないのでもどかしくはなかったが、乾くまでに部屋のほこりがついてしまうのには困った。何度も塗っているうちに光沢が出てきて、アンバーでおおまかな下絵を描く段階までには、それでひとつの単色の絵のようになっていた。絵の具が乾くにつれてカンバスの表情が変化していく様を毎日観察するのはとてもおもしろかった。

まだ出来上がったばかりで、今はただ嬉しくてほっとした気持ちだけ。
改善点は、今後絵の具が乾くうちに明らかになっていくだろう。
写真は、前回の隅田川の絵よりは実物に近いものが撮れたが、やっぱり何か違う。難しい。

一輪挿しは、4月に市内の陶芸工房の陶芸体験教室で作ったもの。実際のものには、五線譜の模様が彫ってある。この工房では、猫をテーマにした面白い焼き物をいろいろ作っている。

ハルジョオンがまだ咲いている間に完成してよかった。

さて、まもなく皆既月食が始まる。

2011年6月13日

チェロのアップリケのついたコースター


チェロのアップリケ付きのコースターを作ってみた。

幼稚園では、自分の持ち物に名前のかわりに各自好きな形のアップリケを
付けることになっていた。私のはピンクのチェロだった。今日のは青。

2011年5月31日

"More About Paddington" くまのパディントンの話




最近読んだ本より。

"More About Paddington" Michel Bond

『くまのパディントン』の第2作目。
ペルーからイギリスへやってきたくまのパディントンが、居候しているブラウンさんのおうちで巻き起こすドタバタ騒ぎ、クリスマス編。
部屋の模様替えをしようとしてペンキまみれになり部屋をめちゃめちゃにしてしまっても、雪の日に雪だるま(雪グマ?)になろうとして長時間屋外にいて病気になってしまっても、ブラウンさんの奥さんとクリスマスのお買い物に行って大騒動を引き起こしても、なんだか憎めないユーモラスなくま、パディントンと、この予測のつかないくまの行動に頭をかきながらも、家族として暖かく受け入れているブラウンさん一家のお話。

パディントン・ベアは、イギリスに住んでいる間に大好きになった。イギリスではいろんなところでこのくまのぬいぐるみが売られていて、見るたびにかわいいなあと思っていたのだが、パディントンのスーツケース型の箱に入ったDVD・ボックス・セットを買ってから、すっかりファンになってしまった。原作を読むと、常にマイペースなパディントンが実は家族やお友達をとても大切にしている様子、ブラウンさんの奥さんがいつもパディントンの味方をして夫の愚痴に優しく反撃する様子、お手伝いのミセス・バードが「こまったクマさんねえ」とこぼしながらもパディントンをあたたかく見守っている様子などが、せりふのひとつひとつ、お話の隅々から伝わってくる。お話はどれもへんてこだし、可笑しいのだけど、同時になんだか感動してしまって、3日間ほど、夜中に本を読みながら飲むお茶の量が増え、カフェインのせいもあるのかなかなか寝付かれなくなり、寝床でひとり思い出し笑いをしていたのであった。





一番気に入ったのは、初めての大雪にはしゃぎすぎて病気で数日間寝込んだパディントンが、ようやく回復に向かう場面。一家はパディントンのことが心配で心配で、何度もお医者を呼んだり、夜中にそっと様子を見に行ったりしていた。


「パディントンは随分良くなりましたわ。起き上がって、マーマレードのサンドウィッチが食べたいと言ったんですよ!」とミセス・バードが興奮気味にブラウンさんの奥さんに報告すると、奥さんは「マーマレードと聞いてこんな嬉しい気持ちになったことなかったわ」と泣き笑いを浮かべる。するとそのとき、ブラウンさんがパディントンが緊急の時に鳴らせるようにとベッドの脇に設置したベルがけたたましく鳴る。真っ青になったミセス・バードとブラウンさん一家がパディントンの部屋に駆け込んでくる。(以下引用)


  When they entered, Paddington was lying on his back with his paws in the air, staring up at the ceiling.
  "Padington!" called Mrs. Brown, hardly daring to breathe. "Paddington, are you all right?"
  Everyone listened anxiously for the reply. "I think I've had a bit of a relapse," said Paddington, in a weak voice. " I think I'd better have two marmalade sandwiches - just to make sure."
 There was a sigh of relief from the Browns and Mrs. Bird as they exchanged glances. Even if he wasn't quite himself yet, Paddington was definitely on the road to recovery.




日本では、『パディントンのクリスマス』として福音館書店から出版されています。
(私の読んだのは、Houghton Mifflin Company, Boston という出版社から出ている1959年版。上の引用は91−92ページより)

http://www.harpercollins.co.uk/Titles/28951/more-about-paddington-michael-bond-9780006753438
(リンク先のウェブサイトで、冒頭部分の朗読が聴けます。お話の文章、場面も、朗読の雰囲気も、すべてがイギリスの香り。)

2011年5月22日

「雨の隅田川」(油彩)



今年の2月に、一年くらい前に撮った写真をもとに、隅田川の風景の下絵を描いた。その後、少しずつ薄い色を重ねて、乾くのを待って、また色をのせて、という作業を繰り返して、昨日の夜中にようやく一段落した。実際はもっと暗いトーンなのだが、写真を撮ったら実物より明るくなってしまった。


*追記 2011/05/23 載せた写真が実物と随分違うので、昼間に撮り直し、差し替えました。

2011年4月21日

クマの高鼾(ことわざのようだ)

「クマの高鼾」
寝てるところを赤外線撮影されたクマ@冬眠中の穴ぐら

リンクをクリックすると、鼾の手本のような(?)鼾が聴けます。


bbcのニュースにも出ていました。
* 'infrared' 「n. 赤外線」「adj. 赤外線の」



もうひとつ、クマニュース。

「クマ 雲梯に 助けられ」(犬棒かるたのようだ)
http://www.bbc.co.uk/news/world-us-canada-13102821


*bbcニュースの動画は、最初に数十秒間広告が出た後に始まります。



2011年4月14日

原発・原子力商業利用関連の図書

*このブログの趣向と合わないため一度削除した記事ですが、載せた方が良いとアドバイスをいただきましたので再度アップします。

私がこれまでの間に読んだ原発・原子力商業利用関連の図書を挙げます。
*核の利用について 
『プルトニウムの恐怖』高木仁三郎著 岩波新書
・『狂気の核武装大国アメリカ』ヘレン・カルディコット著 岡野内正、マグリアーチ慶子訳 
・『核の冬』M. ロワン=ロビンソン著 高榎堯訳 岩波新書 
・『日本の核・アジアの核  日本人の核音痴を衝く』金子熊夫著 朝日新聞社 
*日本の原発 
・『原発・正力・CIA  機密文書で読む昭和裏面史』有馬哲夫著 新潮社
・『原発の現場  東電福島第一原発とその周辺』朝日新聞いわき支局編 朝日ソノラマ
・『東海村臨界事故への道  払われなかった安全コスト』七沢潔著 岩波書店 
*チェルノブイリ原発事故関連 
・『チェルノブイリの少年たち』広瀬隆著 新潮社
・『チェルノブイリ報告』広河隆一著 岩波新書 
・『ぼくとチェルノブイリの子どもたちの5年間』菅沼昭著 ポプラ社・『チェルノブイリ(上・下)』R.P. ゲイル、T. ハウザー著 吉本晋一郎訳 岩波新書 
・『チェルノブイリの森  事故後20年の自然誌』メアリー・マイシオ著 中尾ゆかり訳 NHK出版
*被曝関連 
・『母と子でみる 23 ヒバクシャ  世界の核実験と核汚染』桐生広人著(写真・文) 草の根出版会
・『被曝の世紀  放射線の時代に起こったこと』キャサリン・コーフィールド著 友清裕昭訳 朝日新聞社 
・『放射線医療  CT診断から緩和ケアまで』大西正夫著 中公新書
*辞典
・『放射線用語辞典』飯田博美編 通商産業研究社(昭和53年) 


私が信頼できると信じている学者の動画も2つ、挙げておきます。この人たちの発言は、福島第一原発の状況についてニュースで報道されているよりはるかに厳しい現実を示唆していますが、あいまいな表現が少なく、事実を丁寧に説明したものです。そして、この人たちの言っていることが信頼できると思う二つ目の理由は、彼らがとても頭が良いと思うから。単に知能指数が高いという意味ではなく、自分の手で得た正確な知識を持ち、心を使って人にそれを伝えることができるという意味で頭の良い人たちだと思うということです。上に挙げた『プルトニウムの恐怖』の著者、高木仁三郎という人もそうです。決して感情的に書いているわけではないのに、この人がプルトニウムのおそろしさを心底知っていること、それを平和利用という名目で利用することのリスクを一人ひとりに考えてほしいと願っていることが、しんしんと伝わってくるのです。こういう人たちの言葉ににじみでている、人間としての優しさと勇気と専門家としての使命感が、私のような素人にも、もっとこの問題について勉強しなくてはと思わせてくれているような気がします。
Christopher Busby, the European Committee on Radiation Risks

原発問題に関して私はまったくの素人ですが、今後、少しでも多くの人がこの問題に関心を持ち、ある程度の知識を持って話し合ったり意見を交換したして、裾野を拡げていくことが必要だと考えています。また、原子力に携わってきた研究者や技術者からの、科学のあり方についての強烈なメッセージを受け取ることの意味は少なくないと思っています。まだまだたくさん読んで勉強したいと思っていますので、関連図書をご存知の方は教えてください。

2011年3月20日

溶ける

数日前、すごく寒かった日の夜に、昨年描いた2つの絵にタブローを塗った。
画材屋さんでは、絵の具が完全に乾く前に塗れる保護液や速乾性のあるスプレータイプのワニスも見せてもらったが、今回は絵が描き上がってから半年以上経っているしどこかへ送る用もなし、何も急がないので、オーソドックスなクサカベのタブローを使うことにした。これはダンマル樹脂をテレピン油に溶かしたワニスで、独特の臭いがあるうえ、塗る時はけっこうべたべたする。タブローは光沢が強く出るので落ち着いた質感を求める絵には向かないといわれるが、塗ってみたらてかてかするほどではなく、色をつけたばかりの時の鮮やかさが蘇ったように思った。でも1日くらいは臭いので、暖かい日の昼間にやったほうが絶対に良い。

今日は新しい絵の下塗りをした。目の細かい麻の12号のカンバスを買って、何も描かずに部屋の壁に立てかけておいて、2週間くらい毎日眺めてたのであった。

大きい筆とぼろ布で下塗りをしているときは作業に集中していただけだし、これから描こうとしているのも抽象的なものではないのだが、作業を終え、お茶をいれておやつを食べながら眺めてみたら、ここ一週間くらいの間に自分が感じたさまざまのことが溶け込んでいるような気がした。




2011年3月9日

梅の木にとまるうぐいすあり

暖かくなったと思ったら雪が降ったり、寒いと思って電気ヒーターをいれたら部屋の中が暑くなりすぎり、三寒四温というにはテンポがでたらめのような、なんとも先の読めない気候が続いている。それでも、3月に入ってからは、編み物がなんとなく季節外れな作業のような気がしているから、やはり春はちゃんと来ているのだろう。

今編んでいるセーター等(棒針)は、アフリカの子どもたちに手編みのセーター、マフラー、手袋、帽子、毛布などを送る活動をしているイギリスのチャリティー団体のひとつに送るつもり。手編みのものを児童施設やホームレスの人々や貧困地域の子どもに送る活動をしている団体がイギリスにいくつもあることを、最近になって知った。イギリスにいる間に編み物チャリティーを知っていたら絶対参加していたのに! ああ残念。

イギリスはチャリティー活動やボランティアがとてもさかんな国であるが、手編みを送るチャリティーへの参加も敷居が低そうである。たとえば、knit a square。20センチ四方の四角を編んで、事務局に送ると、そこで活動している婦人たちが、集まった四角をいくつも縫い合わせて大判のブランケットを作り、出来上がったブランケットをアフリカの子どもたちに届けてくれる。方形なら、セーターを編む技術がなくても、それどころか編み棒を手にしたことのない超初心者でも、最初の作り目と最後の伏せ止めを教わって、表編みができれば編める。高値で販売できそうな素晴らしい編み込みセーターを作れる人も、ガータ編みの四角が精一杯という人も、各人の技量に合わせて気負わずに参加できるところがいい。

ところで、チャリティー団体は星の数ほどあるから、自分が支援をしたい対象(私の場合は「劣悪な環境にいる子ども」)への活動、支援をしたい方法(今回の場合は「手編み」)での活動をしている団体を見つけても、そこが実際にどういう活動をしているかをよく見極めないといけない。税金対策としてチャリティーに登録して実質それらしいことは殆どしてない団体や、集めたお金の1割くらいしか実際に寄付していないような団体もけっこうあるのだ。でも、大変な熱意と信条を持って地道に活動している人も多く、そういう人々の姿勢には、深く考えさせられるものがあり、とても貴重な学ぶべきものがある。



2月に始めたかぎ針にも少しは慣れてきた。練習で編んだものは、台所で洗いものに使っている。アクリルたわしじゃなく、ウールの毛糸だけど、洗剤をつけなくても食器がぴかぴかになる。

というわけで、編み物はとてもいい気分転換になっている。BBCラジオを聴きながら、映画を見ながら、繊細で美しいショスタコーヴィチを聴きながら、じっと手を動かしている。

写真は兄弟に作ったかぎ針編みのコースター。身近な人に手編みのものをあげるのは気が引けるのでしたことがなかったけど、ちょっと何かしたい気になったのであった。


2011年2月11日

熊三部作

正面



後ろ姿







「黄昏れる」






先日基本編みを練習したので、あみぐるみの編み図を検索して、要領を覚えて作ってみた。正確な編み図はないけど(なので同じものは二度と作れない)いろいろ工夫したらなんとかクマに見えるようになった(でも正面の写真は猫にも見える気がする。。。)。河馬のたわしへの道はつづく。


2011年2月6日

紫の薔薇(もこもこ)

前からとってもやってみたかった、かぎ針編み。

かぎ針で作るかわいいアクリルたわしや、美しいかぎ針モチーフのショールなどを見るたびに、「むずかしいのかなー。きっとむずかしいだろうな。でも、わたしたわしが作りたい!(いつか帽子やストールも作りたい!)」とむずむずしていた。

で、昨日ついに手を出してしまった。
昨日、駅前通りで毛糸屋さんを見つけてしまって、入ってしまった。店内には、色とりどりの、いろんな手触りの毛糸がいっぱい。そして、アクリルたわしの本も何冊も。河馬とかライオンとかの猛獣のたわしに心惹かれる。赤ずきん束子(!)の作り方が載っている本もあった。でも河馬や赤ずきんは私にはあまりにも難易度が高そうだったので、まずは家で基本の編み方をやってみて、なんとかなりそうな気配だったら本を買うことにした。安いアクリルの紫の毛糸を買ってお店を出た。かぎ針は、もうずっと前に買って引き出しに仕舞ってある。。。

家に帰ってかぎ針編みの基礎やデザインの型紙を検索したら、「アクリルたわし」で約15万6千件も出てきた。「可愛いたわし」作りたい人、作ってる人が日本中にたくさんいるんだな(Google UKでも、kitchen scrubbing knitting 等の検索ワードでいろいろ出てくるけど、正方形のものが多いし、動物の形のもほとんどなかった)。

いくつか初心者向けの動画やウェブサイトを見たが、ハマナカのかぎ針編みの動画がとてもわかりやすかった。数回じっくり観察して、ゆっくり再現してみただけで、超初心者の私の手の中の毛糸にも編み目ができていく、すごい動画。うちにある毛糸で、細編み、長編み、輪の作り目などなど2時間ほど練習。

今日も、休憩時間にちょこちょこと練習。棒針よりも小さいスペースで作業できるのが楽しい。地味な手作業の積み重ねで一本の毛糸が徐々にある形をとっていく、その過程が心を穏やかにしてくれる。外で、風がびゅうびゅういっている。でも家の中では、作業についての私のひとり言と、編み針が毛糸にひっかかる音しかしない(いろいろ間違えるのでひっかかる)。こうしていると、車の音にも、もう何かを期待しないですむ。

写真は、初めてのかぎ針編み作品。河馬のたわしの本を買う日までがんばろう。勉強もがんばる。











2011年1月27日

束摩焼(つかまやき)

湯呑みをひとつ買った。
本は例外として、持ち物はなるべく増やしたくないと思っているし、年齢とともにその傾向はますます強まっているのだけれど、それでも時々、ものを買ってしまう。

あるデパートにちょっと行ったら、最上階で市の催しをやっていた。スペースの一画には、地元の小学生がお城や有名建築物を描いた、写生会の入選作品がたくさん展示してあった。建物のある風景全体を四角の枠に捉えてきれいな色をつけてある絵がたくさんあって、入選だけあって上手だなあと感心した反面、そつがないなという印象のものも多かった。金賞を取った作品群には、他の入選作品にはない気迫や気品があって感心した。観察眼も色使いも、他のどれとも似ていない。金賞の中でも、城と空をいろいろな濃さの紫と青の点で描いた作品と、城のお堀を絵の具の色を全種類使って塗り分けたような作品がとくに印象的だった。絵を描く目的によって求められるものは異なるけれども、制約がほとんどないなかで絵を描く時には、写生した対象(実物)と形や色が同じかどうかということよりも、本人が自分の見る目と思考と感性によって「これだ」と感じるかたちをとらえ色をつければよいのではないかと、改めて思った(「つければよい」といっても、実際はその方がずっと難しい作業だ。本人の意図と技術なければただの偏屈か珍奇か出鱈目か滅茶苦茶になってしまう)。

子どもたちの絵を楽しんだ後、絵の展示の隣のスペースでやっていた物産展を少し見てたら、そこにいい焼き物があった。束摩焼というのだそうだ。この土地の空気をそのまま封じ込めたような焼き物である。墨絵のような色彩で、山々が彫ってある。私はこの土地の者ではないけれど、なんだか妙に惹かれた。手に取って一周させると、パノラマを見ているような高揚感があった。

その物産展では、その日の朝に炒ったというほうじ茶と、茗荷の味噌漬けを買った。家に帰ってきて、買ってきた焼き物でほうじ茶を飲んだ。少しほっとした。








写真は、束摩焼の湯呑み茶碗と、妹がアンティークショップで見つけて送ってくれたティーカップ。コースターはどちらも去年編んだもの。

2011年1月18日

戦艦ポチョムキン



1925年制作のロシア映画、『戦艦ポチョムキン』は無論、コメディ映画ではない。サイレント映画史上、最も重大なプロパガンダ・フィルムとして知られる作品である。しかし、この名作にしてこの珍名。「ポチョムキン」というなんとも可愛らしい名前と、重厚でかっこいい「戦艦」という響きのミスマッチ。プーチンがチェブラーシカのぬいぐるみを抱いているような違和感がある。たまらん。

なぜ戦艦ポチョムキンかといえば、昨日試験が終わったのである。
4月の末から約9ヶ月、夜更けのカエルの声に心を打たれ、庭の二十日大根を友だちのように感じ、燃えるような山々の紅葉に圧倒され、稲刈り機の騒音に悪態をつき、引っ越してからは何度も道に迷い、祖父母の家の白菊の可憐さに驚き、クリスマスソングは無視した。。。永かったなあ。

よく勉強に行っていたスターバックスで、試験の一日前に、バッハの二つのヴァイオリンのためのソナタの第二楽章が流れたとき、「勝った」と思った。そのメロディは本当に美しく、愛情に満ちていた。その直感通り、私はひとつ、大きな障壁を乗り越えた。これまでの人生で、私は、もともとのアホさに加えて、大変な緊張症のせいで試験や人前であたまが真っ白になり、かたまったまま時間を過ごしたということが何度もあり、そのために人生大損という面があった。でも、ひとつ前の日記に書いたような昨年の訓練の結果、今回の試験では、自分の蓄えてきた力を不足なく本番で出せたのであった。だから、不安の残るものはその通りの点が出たし、力のついたものはかなり良い点数が出た。出来はとても合理的で正直だった。なんというか、自分のしたことに納得がいくということは、こんなにも気持ちのいいものなのか。

というわけで、試験を終え、雪の降る中、本屋さんのあるスーパーに寄って、古本で小説を数冊、新書を数冊、そして戦艦ポチョムキンのDVDを買って帰ってきたのだった。ふとんでぬくぬくしながら本を読む幸せ。ポチョムキンを観たら、あとはチェロの練習がしたい。






*追記1
戦艦の本名は「ポチョムキン=タヴリーチェスキー公」という、エカテリーナ2世の愛人であったグリゴリー・アレクサンドロヴィチ・ポチョムキンに由来するそうだ。グリゴリー・アレクサンドロヴィチ・ポチョムキンは1773年に起こった「プガチョフの乱」で活躍した。プガチョフ。)


*追記2
あと、この映画にはショスタコーヴィチの交響曲第11番「1905」の第二楽章が使用されている点で、音楽史上においても極めて重要な作品であることを強調して付記しておかねばならない。





*プーチンのクマさんはこちら。いいセンス。
http://www.cafepress.co.uk/+vladimir_is_real_man_teddy_bear,300506462
http://www.cafepress.co.uk/+putin_teddy_bear,79461586


*写真は、ロシアで作られた「歴代大統領マトリョーシカ」である。10番目がプーチン。最初のは、ピヨートル大帝(1センチにも満たない大きさらしい)
http://www.rosianotomo.com/matryoshka/matryoshka3.htm