2010年5月19日

日課としての縄跳び

毎日12〜15時間くらい机に向かっているので腰が痛い。それに、少しは体を動かしていないと気持ちが沈んで辛いので、昨晩から夕食後に5分間縄跳びをすることにした。

日課が増えすぎるのはよくないのだろうが、いまは、ピアノとチェロをあわせて毎日1時間くらい、図画工作を眠気の強い夕方と、どうしても辛くなったときに少しずつやるようにしている。それに縄跳びを5分追加した。

チェロは、体の力を抜いて弾くことに加えて、自分の音をよく聴きなさい、どんな音を出しているか、どんな音を出したいのか、よく考えてよく聴きなさい、と先生にいつもいわれてきた。自分の音を聴けるようになる、そして弾くことと聴くことのギャップを埋めていくというのが今年の最大の目標なので、とにかく肩、肘、指、手首、腹、胆、足などいろいろなところに意識を向けつつ、音がどう変わるか、変な表現だが耳にも目を向けて練習している。私は、理想とする音楽が自分の中にあって、心の中で歌っていると自分がオーケストラのジュークボックスになったようで幸福を感じるのだが、チェロに関しては、ただテープを聞かされてそれを真似てきた経緯があるためか、理想の音楽の輪郭がぼけていることが多いことがわかってきた。そして、「こういう音楽にしたい」ということが明確にわかっていないと意識を向ける方向を間違うということもわかってきた。それにしても、実際少しでも思いどおりの音楽ができると、幸福に他ではちょっと味わえない嬉しさが加わる。我ながら安い趣味だなあ。
チェロの練習はたいてい録画してあとで復習している。この1年と少しの間に無心で練習することはなくなったが、録音したものを聞いてみると、やはりすべての音に神経が行き届いてはおらず、意味のない無神経な音を出している。あとから聞くと、どの音やフレーズに意識が注入されているかそうでないか、非常に良くわかる。自分の音を集中して聞きながら、然るべきテンポではじめから終わりまで弾き通せていることは、まだあまりない。ああ、もっと上手くなりたい。

ピアノは、愛の挨拶を弾いている。春に聴いたチッコリーニの演奏が自分の中にスタンダードとして刻み込まれた。音楽にしかできない所作のきわめて高貴なすがたがあった。あれはあの瞬間にあの人にしかできない愛の挨拶だったのだ。あんなふうに、聴く人の心にすっと入りこんで幸せを残していってくれる演奏ができたら、どんなに素晴らしいだろう。
私もそういうふうでありたい、そう思いながらじっと弾いている。とても楽しい。録音してみたが、下手なりに、こだわりという名の味が感じられる。下手の横好きとはよくいったものだ。

絵は、川を描いている。絵は、頭の中にある描くべきものに一直線に向かって手を動かしているだけなので楽だし、描こうとしているのが何か特殊な概念構築物でもなんでもないただの川だからか、しばらく後には気が休まっている。

そして、縄跳び。夜風に当たりながら、ただぴょんぴょん跳ぶのは気持ちがいい。しかし、1分と続かないうちにひっかかってしまう。なんとか3分くらいまで持っていきたい。

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