2010年5月23日

賀茂真淵『にひまなび』

江戸時代の国学者、賀茂真淵の著『にひまなび』より。

今日、お茶摘みをして日差しと植物の生命力を強く感じたせいか、夜にこれを読んだときとても心に響くものがあったので本文と現代語訳を載せることにした。

【昼間の感想】
真っ直ぐに伸びたお茶の芽を手で摘み取っていると、「気高く真っ直ぐなもののうちにある優雅さ、雄大さ」を手応えあるものとして感じる。そのお茶の芽についてかこうと思えば、その見た目の綺麗さだけを並べたきれいごとだけではとても足りない。強烈な日差しや騒音ともいえる大量の雨について、地面から伸びている草との戦いについて思いめぐらすことなしに、そのやわらかい新芽の気高い生命力を表現するすべは(文章でも、絵でも、音楽であっても)ない。(しかし、実際にどう表現するかは別の話だ。)
人は、時々でも何かの生命に触れて、清潔で見た目がよい綺麗さはなくとも、そこに確かにある気高さや雄大さを直接感じる必要があると思う。そういうものに触れたときに、人はそれを「いとおしい」と感じるのではないか。



現代語訳は、夏古彩佑歌編によるもの。
本文、現代語訳ともに、一部、漢字をひらがなに直し、言葉遣いをより現代語に近いものに変えた。



【にひまなび】

いにしへの歌は調しらべを専らとせり。うたふ物なればなり。その調の大よそは、のどにも、あきらにも、さやに(*清澄に)も、遠をくらにも、己がじし得たるまにまになる物の、貫くに、高く直き心をもてす。且つその高き中に雅びあり。直き中に雄々しき心はあるなり。何ぞといへば、万づの物の父母なる天地は春夏秋冬をなしぬ。そが中に生まるゝ物、こを分ち得るからに、うたひ出づる歌の調もしか也。また春と夏と交り、秋と冬と交れるがごと、彼れ是れを兼ねたるも有りて、種々なれど、各それに付けつゝ宜しき調は有るめり。然ればいにしへの事を知る上に、今その調の状さまをも見るに、大和國は丈夫國ますらをのくににして、古は女をみなも丈夫に習へり。故(かれ)、万葉集の歌は、凡そ丈夫の手振り(*流儀)なり。山背國は手弱女國(たをやめくに)にして、丈夫も手弱女を習ひぬ。故、古今歌集の歌は、專ら手弱女の姿なり。仍りてかの古今歌集に、六人の歌を判る(ことわる=評価する)に、のどかにさやかなるを、姿を得たりとし、強く堅きを鄙びたりと云へるは、その國、その時の姿を姿として、広くいにしへをかへり見ざるものなり。物は四つの時のさまざま有るなるを、しかのみ判らば、只春の長閑なるをのみ取りて、夏冬を捨て、手弱女ぶりによりて、丈夫すさみを忌むに似たり。そもそも上つ御代御代、その大和の國に宮敷きましゝ時は、おもてには建たけき御稜威(みいづ=威勢)をもて、内には寛ひろき和(にごみ)をなして、天の下をまつろへましゝからに、いや栄えに栄えまし、民もひたぶるに上を貴みて、己れも直く伝はれりしを、山背の國に遷しましゝゆ、かしこき御稜威のやゝ劣りに劣り給ひ、民も彼れにつき是れにおもねりて、心邪(よこしま)に成り行きにしは、何ぞの故と思ふらんや。其の丈夫の道を用ゐ給はず、手弱女の姿をうるはしむ國ぶりと成り、それが上に唐の國ぶり行はれて、民、上を畏まず、奸よこす(*非道を行う・中傷する)心の出できし故ぞ。然れば、春の長閑に、夏のかしこく、秋のいち早く、冬の潜まれる、種々無くては、よろづ足らはざるなり。古今歌集出でてよりは、やはらびたるを歌といふと覚えて、雄々しく強きを賤しとするは、甚じき(いみじき)僻事なり。これらの心を知らんには、万葉集を常に見よ。且つ我が歌もそれに似ばやと思ひて、年月に(*永年)詠む程に、其の調も心も、心に染みぬべし。さるが中に万葉は撰みぬる巻は少なくて、多くは家々の歌集なれば、悪しき歌、悪しき言もあり。いで今摸かたとし学ばんには、よきをとるべし。そのよきを撰むは難かれど、既にいへる調を思ひてとるべし。また本はいと愛でたくて、末悪しきもあり。そは本を学びて末を捨つべし。是れを善くとれるは、鎌倉のおほまうち君(*源実朝)なり。その歌どもを多く見て思へ。しかすがに(*反面)、又古今歌集を見るべし。こは凡そ女の姿なる中に、詠み人知らえぬ歌には、奈良の朝(みかど)の歌もあり。且つそを後の言して唱へ変へたるも有り。今の都なるも、始め三嗣ばかりの御代は、万づいにしへの手振ありて、歌もなかばいにしへを兼ねたり。よりて此の集には、詠み人知らずてふにこそ勝れたる歌は多けれ。それより後なる中には、細かに巧みて心深げなるを去るべし。本撰める物といへど、いにしへにかへらんとする時は、などか更に撰みの有らざらん。斯く意得(こころえ)たる後には、後撰、拾遺の歌集、古今六帖、古き物語書ぶみらをも見よ。かくて立かへり、古事記、日本紀を読み、続日本紀の宣命、延喜式の祝詞の巻などを善く見ば、歌のみかは、自おのづから古き樣の文をも綴らるべきなり。



【現代語訳】

古代の和歌は、「調子」をもっぱら第一とする。声に出して歌うものだからである。その調べのおおよそのところを述べれば、穏やかにも、明瞭にも、鮮やかにも、ほの暗くも、それぞれ思い思いの調子で詠んでもかまわないものなのであるが、一貫しているのは、気高く真っ直ぐな心である。またその気高さの中に優雅さがある。まっすぐな中に雄大な感じがあるのである。どういうことかというと、万物の生成の根源である天地は、春夏秋冬という季節の違いを創造した。天地の中に生まれるものが、季節を分ち、作ったが故に、歌い出る歌もまた同様である。また春と夏とが交差し、秋と冬とが交差するように、(もともとが気高く真っ直ぐな心で、その中からさまざまな調べが生まれるのであり)、あれこれの調子をかねているものもあってさまざまであるが、おのおのそれぞれにまあまあよい調べがあるようだ。したがって、古代のことを知る上では、いまその調べのさまをも見るのだが、大和の国は勇ましく強く立派な男性的な国であって、古代は女性も男性風にまねならっていた。ゆえに、『万葉集』の歌は、だいたい男性的な歌風である。(一方)山城の国はか弱くしなやかな女性的な国であって、男性も女性風にまね習っていた。ゆえに、『古今和歌集』の歌は、もっぱら女性的な歌風である。よってかの『古今和歌集』に、六人の歌を評するに際して、穏やかで清々しい歌を格調が高いとし、強くかたい感じの歌を田舎じみているといっているのは、その国、その当時の歌風を格調高いものとして、広く古代を顧みないものである。ものには四季のようにさまざまな姿があるのに、このようにばかり(一面的に)評価するのならば、ただ春ののどかさだけを取り上げて、夏や冬を捨てて、「手弱女」のような(か弱くしなやかな)歌風によって、「丈夫」のように気のままに任せることを嫌うのに似ている。そもそも上代の各御代が、大和の国に都を治めておいでだったときは、外向きには天皇や神などの威勢をもって、内側にはおおらかな和やかさをもって、天下を服従させたので、国は増々繁栄し、国民も為政者を尊んで、自身も素直な心のままで代々続いてきたのに、山城の国にせんとなさってから、恐れ多い天皇や神などの威勢が次第に劣るようになり、国民もあれこれに従ったりおもねったりして、心がよこしまになっていったのは、何故と思っているのだろうか。その理由は、「丈夫」の道を用いず、「手弱女」の姿を評価する国風となって、その上に唐の国風が行われて、国民は上を尊敬せず、ないことをあるように悪口を言う心ができたからである。であるから、春はのどかに、夏は烈しく、秋はものの変化が早く、冬は静寂であるというようにさまざまでなければ、すべては不十分なのである。『古今和歌集』が出てからは、優美なものを和歌だというのだとなんとなく思われて、雄々しく強靭な歌を卑しいと見るのは、はなはだしき誤りである。これら四季それぞれの感じを知ろうとするなら、『万葉集』を常に見よ。かつ自分の歌もそれに似せたいと思って、年月を重ねて詠むうちに、その調べも心も心にしみ込むであろう。そのような中で、『万葉集』は選者が選択して成った巻は少なく、多くは家々の歌集そのままであるから、下手な歌や、下手な言葉もある。だから、さあいま模範として学ぼうとするなら、うまい歌を選ぶのがよい。そのうまい歌を選ぶのは難しいが、既に述べた「調べ」を念頭において選ぶがよい。また、(一首の中でも)上の句はとてもすばらしくて、下の句は下手なのもある。その場合は、上の句を学んで下の句を捨てるのがよい。これをよく学んだのは、源実朝である。その実朝の多くの歌を見て考えなさい。そうはいうものの、『古今和歌集』も見るべきである。これはおよそ女性的な歌風である中に、詠み人知らずの歌には、奈良調の歌もある。またそれを後世の言葉で唱え変えているものもある。いまの都のある平安時代に入っても、桓武、平城、嵯峨くらいの御代は、万事古代の詠みぶりが残っていて、歌も半ばは古代の歌風を兼ね備えている。よってこの『古今和歌集』には、詠み人知らずという歌にこそ優れた歌が多いのである。それより後の歌の中には、繊細に思考をこらして内容が深そうなものがあるが、それは遠ざけるがよい。(『古今和歌集』は)基本的に(選者が)選んだものであるといっても、古代に還ろうとするするときは、どうしてさらに選択しないことがあろうか(選択して学べばよいのである)。このように心得たら、『後撰和歌集』、『拾遺和歌集』、『古今和歌六帖』、古い物語書などを見よ。こうして(上代に)立ち返り、『古事記』、『日本書紀』を読み、『続日本紀』の宣命、『延喜式』の祝詞の巻などをよく見るならば、歌だけでなく、自然と古代風な文章を綴れるようになるはずである。

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