2010年12月9日

常に身近に在るが「日常」ではない、でも「現実」である音楽

Jeno JandoというピアニストがNAXOSから出している、シューベルトのアムプロムプチュをよく聴いている。この人の、内向的で、一人だけの輝く世界に限りない安寧を見いだしているような演奏(でも達観しているようなところもある)は、私が作曲家シューベルトの人物像として抱いている印象と重なるということもあって、いつ聴いても心が安らぐ。淡々として無駄な飾り気や重厚さがまったくなく、それでいて音楽はあくまでも人間の所作であることをしみじみと感じる、ものすごく好みの演奏である。特にOp. 90の第1番と第3番が良い。

演奏家の熱い思いを大げさな動作や重厚さとして醸し出した音楽は嫌いというのは、まあ私個人の好みの問題かもしれないが、「音楽はあくまでも人間の所作であることをしみじみと感じる」音楽については、この間から少し深く考えている。

少し前のことになるが、ある人が弾いたバッハのチェロ無伴奏組曲第2番を聴いた。私はそれまで、無伴奏はバッハの楽曲のなかでも情緒的で、他のオルガン曲等とは毛色の違う楽曲なのかと思っていたが、それは随分な偏見だったようだ。今まで聴いてきた無伴奏が、バッハの音楽からは離れた情緒的解釈を主体にした演奏だったためかもしれない。というのは、無伴奏のしくみやからくりを丁寧に解きほぐし、そこに自分の解釈を加えたものを見せてもらった時に、チェロの後ろでオルガンが鳴っているような音の層と、動く歩道に身体が引っ張られるかのような抗いがたい牽引力を体感したのだった。そして、無伴奏はバッハの例外作などではなく、パルティータやインヴェンションなどのクラヴィーア曲や他のミサ曲とも繋がる構造やからくりを持っていることが「現実として」感じられたのだった。それが具体的に何なのかはそのうち自分で調べなくてはいけないのだが、ともあれ、とても面白い体験だった。

先の体験の何が面白かったのかについて考えながら、手元にあるフルトヴェングラーの『音と言葉』を読み返していたのだが、ロマン派についての記述の中に、そのこたえの一つかもしれないと思う箇所があった。
それはこの章の冒頭の、

『完成された芸術作品が偉大であるというのは、それは情感されたもの、思索し、直観し、意欲されたものに形体を与えるからです。ここで形体と言うのは、その作品自体の中に静止している現実を指していっているのです。』(フルトヴェングラー『音と言葉』新潮文庫、98ページ)

という部分である。これは、(別にロマン派の音楽に限らず)完成された芸術作品を演奏という形でリプレゼンテーションする演奏家についてもいえることなのではないかと思う。思うに、私が面白く感じるのは、シューベルトのアムプロムプチュも、バッハの無伴奏も、演奏家の思惑通りというよりは、作曲家寄りの解釈の中にある「静止した現実」を演奏家という別の人間を通してみることにわくわくしたからではないか。演奏している人がどう感じているのかわからないが、他の人間の作品を別の人間がここまで理解して自分の言葉で再現できるというのは不思議だ。以前、こちらの日記で「音楽の向こうにある世界」について書いた時とは別のかたちで、芸術って、人間ってすごいなあと感動したのであった。

バッハの無伴奏では、作曲者と同じように、演奏者も調べたこと、考えたこと、感じたこと、そして感情も含めた現実に、形体を与える力が必要なんだなあということを、聴き手であるこちらも現実のものとして感じた。
ちょっとまとまりがなくなってしまったが、貴重な体験だったので、考えたことをこのウェブ日記にも載せることにした。






**
フルトヴェングラーのロマン派についての記述の中には、また別の興味深い部分がある。

フルトヴェングラーは、「ロマン主義」とは、現実を直視することなしに夢と錯覚(思いこみといったほうが正確だと思うが)の世界を現実と思おうとする精神的態度であり、それは拒否すべきものであるとしている。しかし、実はこの意味でのロマン主義は、一般にロマン派と呼ばれる人々にはむしろあまり見られない傾向なのだという。ロマン派と呼ばれる人々の真の芸術作品には、実のところ、人々が「ロマン派」と呼びフルトヴェングラーからすれば「逃げ」である、こういう姿勢はない。なぜなら、ある作品が真の芸術作品である以上、ロマン主義一辺倒であるわけがない(それでは形体を与えるべきものの要求を満たすことなどできようがない)し、同時にそれは、偉大な芸術作品である以上、ロマン主義から逸脱するものでもない(芸術とは、『生命の象徴としてのみその意味と価値を持つ』ものであるから)のだから。

『現実から逃亡しようというこの種の傾向は、いわゆるロマン派と呼ばれている人々においてみられることははるかに少なく、むしろ彼らの敵手であり、およそロマン派と名のつくものでありさえすれば、目の敵にしてこれを引き下げることに飽くことを知らぬという人々の側にこそ多く見出されます。すなわち、この技術化された時代の一つの出来事の一片が、「機動的なるもの」が、生命の全体であると思っている人々、およそまた愛情、人間的温かみ、充溢、官能、限りない躍動、と呼ばれるもの一切に対立して自己を閉ざし、それらを悪辣な仇敵であるかのように怖れる人々こそ、ーーー今日は真の意味においてロマン派と呼ばれるべきなのです。(中略)非創造的な、知性的錯覚の世界の中へ逃亡する人々こそ、ロマン派なのです。』(同、101ページ)

これは鋭く重要な指摘であると思う。ロマン主義の音楽は現実的な葛藤を抱えているのだ。「およそロマン派と名のつくものでありさえすれば、目の敵にしてこれを引き下げることに飽くことを知らぬという人々」と並んで、「シューマンはロマン派だから」といって、その楽曲のなかの現実を捉えようとすることなく、ただただ情熱と愛をこめて歌い上げようとする演奏家もまた、フルトヴェングラーには痛烈に批判されそうである。

0 件のコメント:

コメントを投稿