2010年9月1日

夏の天気・転機(2)

Final mov. A Prom:ギル・シャハムと音楽の世界 

ギル・シャハムは、私が最も好きな音楽家の一人である。今生きている中では間違いなく最高のヴァイオリニストだと思う。何が素晴らしいって、彼の音楽は生きる喜びに溢れているところ。それから、いま鳴っている音楽の向こうにある、繊細でドラマチックで、壮大な世界を見せてくれるところ。その世界について説明するのは難しいが、いま持っているイメージをできるだけ言葉にしてみよう。 

私たちは、部屋の中にいる。部屋には大きな窓があって、その窓は開いている。大きく開いた窓にうすい半透明の美しいカーテンがかかっている。カーテンは、陽の光で強烈な光を帯びたりモノトーンになったりする。外の風によって形を変え、揺れたり膨らんだり丸まったりする。私たちはそのカーテンの動きを少し離れたところから飽きることなく眺め、その変化を楽しんでいる。時折カーテンが風に持ち上げられて、外の景色が見える。そこには、知識としては少しは知ってはいるけれど実際に体験したことはない、太古から続く生き生きとした広大な世界が広がっている。星が生まれてどんどん膨れ上がって最後にはブラックホールに収縮し、動物たちが何億年もかけて進化を遂げていったというような途方もない年月の世界。その世界を、私たちは憧れと知的好奇心から、カーテンの動き以上にもっとよく知りたいと切望する。想像力を働かせて、大きな風を期待して、もっと向こうを見ようとする。風が十分になければ、外を見ることは叶わない。そして、カーテンを取り去ってしまったら、窓の向こうの世界は、たんに視覚的な情報として認識される景色に過ぎない。鋭い観察によって、その世界について知識として記憶し、記述することはできるが、そこに見えている以上の物は知覚されない。カーテンの向こうが見えるのは、奇跡的なことなのだ。うすいカーテンが音楽で、カーテンの向こうに垣間見えるのが、音楽を超えた世界。 

注:私はパンチラについて語っているのではない。これは、音楽についての話だ。 

実際には音楽は目に見えないし、陽の光や風のような自然の力によって起こっているのでもない。演奏家の洗練された技術と研究に基づいた解釈とパフォーマンスによってなされる人為的なものであり、演奏者を無視して音楽だけ語れるものなのか、私にはわからない。音楽はカーテンだと言っているわけではない。音楽の向こうの世界のイメージを描くために視覚的なたとえを試みている。 

この説明で、どのくらいの人にどのくらい私がイメージするものが伝わるかはわからない。でも、音楽とはそこにただ鳴っていているという価値以上にとんでもなく大きな力を持っていることを、ギル・シャハムのような演奏家から私たちは知ることができるということを書きたかった。彼がヴァイオリニストとして、彼の個性だとかかっこいいところだとかそんなものではなく(いや、彼はハンサムだし演奏中の表情を見ていても楽しいけど)、演奏を通して大きな別の世界を垣間見せてくれることに、私は深い敬意と感謝を感じる。一体どれほどの神経とエネルギーを使ってその仕事を引き受け、我々に分け与えてくれているのだろうか。演奏しながら何を見ているのだろうか。私にはわからない。でも、想像する限りでは、聴く人に何かを教えようとしているのではなく、むしろ演奏者である自分を通り越して、聴く人がそこで鳴っている音楽を超えたものを感じていることを許容してくれているような気がする。なぜそんな自我を超えたことが可能かというと、彼自身が音楽の力を深く知っているからだろう。 

数年前にロイヤル・フェスティバル・ホールで、ギル・シャハムの弾くエルガーのヴァイオリン協奏曲を聴いた時のことは、生々しく思い出せる。自分が座っていた椅子の具合、ステージまでの距離感、オケがソリストにぐいぐい引っ張られて別次元の音楽空間へ向かう躍動感、観客の集中と興奮。 

この夏、BBCプロムスには一度だけ行った。ギル・シャハムがバーバーのヴァイオリン協奏曲を弾くというので。演奏はBBC Symphony Orchestra、指揮はデイビッド・ロバートソン。 
席は上のほうだったので、姿は小さくしか見えなかったが、演奏はとても楽しかった。
バーバーのヴァイオリン協奏曲は優れた楽曲であり、層になった音の組み合わせ方にわくわくしたし、端正で美しいメロディーには涙が出た。なんというドラマチックな音楽なんだろう。舞台の上で、ありとあらゆることが起こっている気がした。世の中にはまだまだ自分の知らない、深く尊く美しい世界がある。そして、音楽を聴きながら、私は自分の人生について、自分にとって何が大切か考えることができた。答えはもうそこにあった。 

私がいいなあと感じる演奏は皆、音が綺麗とか情熱的だという以上に、その人の持つ個とその向こうにあるものが感じられるという点で共通している。私のチェロの先生、Lowri Blake(ロウリ先生)の演奏には、ギル・シャハムの宇宙の進化を感じさせるような世界観とは違って、人間の強靭さと思考の豊かさ、感情の複雑さについて考えさせられる力がある。たった数音でも、はっとすることがある。例えていえば、すごく新鮮で美味しいお寿司を口にした瞬間に、その魚が海で泳いでいるところや、魚市場の箱の中でもぴちぴち跳ねているところ、それがまな板の上で鋭利な包丁で捌かれているところなどを、自分が実際に目で見たことがなくても鮮やかにイメージし、想像の中で体験できるということがあると思う。それが、その魚が実際に辿ってきた道筋であるかということは重要ではない。目の前にある対象物から出発して大きなイマジネーションの世界を旅して帰ってくるという、一瞬にして壮大な旅ができるということが貴重だ。そういう旅をさせてくれる演奏とは、なんて懐が深いんだろうと思う。 


こういう感覚的なことは、もうあまり書きたくないと思っていた。きっと、とても曖昧で、不明瞭で、わかりにくく、非論理的で、伝わらないばかりでなく、もしかしたら人を戸惑わせたりいらいらさせたりするかもしれないから。ここに書いたことも、ほとんど意味不明な妄想に見える可能性もある。だけど、夏の終わりにプロムスに行って、ギル・シャハムの演奏を聴いて、ああ、今まで辛いこともあったけど、生きててよかったなあと思った。自分にはまだちゃんと力が残っていたんだとわかった。そして、正直に何か書きたくなった。これまで、音楽を通して壮大な世界を体験することで、私は自分の重要な部分を創ってきた。コンサートでもCDでも普段の演奏でも、良いものを聴いた時は、カーテンの向こうに見えた世界を言葉に置き換えてみるトレーニングをひとりで随分続けてきた。そのトレーニングを通して、私は人のいいところを見つけて言葉にすることができるようになったと思う。今後も、怖れることなく、自分の言葉で書き、必要な時は勇気を持って言葉で伝えていきたい。 

人生はまだまだ長いし、挫折だって辛い思いだって失敗だってこれからもするだろう。だけどあまり暗いことばかり考えないで、自分のことをもうちょっと信用してひとりでやっていけば、いつかは私にも、人を幸せにするようなことを何かかたちにできるかもしれない。 
空の星のように小さく遠い希望だが、希望を持てたことが、このひと月で最も大きな出来事だった。

1 件のコメント:

  1. 終楽章wを見ていると・・・いかにこの1カ月?が充実していたかがよくわかりますね。

    そして音楽というものが生み出す何か(w)と。
    音楽って・・・素晴らしい。

    そしてBBC見れるなんて・・・素晴らしい。

    ・・・じゃなくてうらやましいw。



    アンコールは・・・あるのでしょうか??w

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