2011年9月6日

『マリー・キュリーが考えたこと』

以前の日記で原発関連図書のリストにあげた、高木仁三郎著『プルトニウムの恐怖』について、 

『決して感情的に書いているわけではないのに、この人がプルトニウムのおそろしさを心底知っていること、それを平和利用という名目で利用することのリスクを一人ひとりに考えてほしいと願っていることが、しんしんと伝わってくるのです。こういう人たちの言葉ににじみでている、人間としての優しさと勇気と専門家としての使命感が、私のような素人にも、もっとこの問題について勉強しなくてはと思わせてくれているような気がします。』 

と書いた。この本は、3.11直後に古本屋さんで題名だけで買った(店外に置かれたスチール棚の一番下の段で砂埃をかぶっていた。105円だった)ものだが、この著者とこの著書に巡り会えたことは私にとって幸運であった。原発問題についての図書はいまや雨後の筍の如く大量に出版されいて、その中のごく一部の本しか読んではいないが、おすすめを一冊、と言われれば『プルトニウムの恐怖』をまず挙げたい。今年読んだ本の中では「心底考えさせられた本」第一位、「これからも折に触れて読み返したい本」第一位である。 

…とこのように大絶賛している高木仁三郎氏の『プルトニウムの恐怖』だけど、さっき読み終えた氏の別の著書もまた、味わい深いものであった。 
それは、『マリー・キュリーが考えたこと』という本で、1992年に岩波ジュニアから出版されたもの。 

これは、いわゆる子ども向け偉人伝『キュリー夫人』とは毛色の違う本で、伝記部分もあるのだが、あくまで高木氏の視点からみた科学者マリー・キュリーを描いているところが特徴的である。 

本の構成も変わっている。第一部では、ポーランドに産まれた彼女の40歳までの人生の軌跡を、時代背景を踏まえつつ、家族や最愛の夫ピエール、娘たちとの細やかな愛情のやり取りに焦点を当てながら描き、第二部では、「もし自分が天国のマリー・キュリーと対話ができたら」という設定で、高木氏の想像による(!)二人の対話を書いている。 

岩波ジュニアから出版されていることからも明らかなように、この本は子ども向けに書かれたものであるが、優れているのは、「やっぱ天才は私なんかとは違うわー」とは読者に思わせないところだと思う。「こんなに天才で頭の良い科学者がいたんだよ、彼女はこんなに偉大だったんだよ」という書き方ではなく、むしろ、マリー・キュリーという人が、輝かしい功績の陰で多くの苦しみを抱えながらも(19世紀後半にポーランドに産まれたことからして苦難の一部は想像されるが、それだけでなく、パリに行ってからも、夫を早くに亡くす、ノーベル賞を得てからも様々な嫉妬や批判を受けるなど数々の辛い思いをしている。また、放射能のせいで身体の不調にも生涯悩まされていたそうだ)自然や自分の周りの人々を愛し、希望を持って強く生きた一人の人間であったということを強く感じさせる語り口になっているのだ。高木仁三郎という人は、マリー・キュリーに心酔していたようで、ご自身の科学者としての存在意義を考えるにあたって、彼女の生き方に随分影響されるところがあったようだ。そして、第2部では、大胆にも、自分が天国のマリーと話ができたら、という設定で、想像上の対話をしている。対話の中で、高木氏は、ピエール・キュリーのノーベル賞受賞講演の一部分を何度も引用し、その言葉について、現代(1900年代後半)の科学技術のあり方について、マリーに多くの質問を投げかけている。 

その言葉を引用してみる。 
「犯罪人の手にはいれば、ラジウムは、きわめて危険な物ともなりかねません。そのことに関連して、われわれは、いったい人間が自然の秘密を知ることによって利益があるのであろうか、いったい人間は自然の秘密を知って善用することができるほど成熟しているのであろうか、あるいはまた、このようなことを知ることは人間に有害なのではあるまいかと、いちおう疑ってみることができます。ノーベルの諸発見こそは、この問題にとってもってこいの例であります。すなわち強力な爆薬は人間に感嘆すべき大事業を可能ならしめたのでありました。一方これらの爆薬は、諸国民を戦争に引きずり込むような犯罪者の手にかかれば、恐ろしい破壊の手段ともなるのであります。がわたしはノーベルと同じように、人間は新しい発見から、悪よりも、むしろより多くの善を引き出すであろうと信じる者のひとりであります」(マリー・キュリー著『ピエル・キュリー伝』、高木仁三郎著『マリー・キュリーが考えたこと』130ページ) 

「いったい人間は自然の秘密を知って善用することができるほど成熟しているのであろうか」という問いは、高木氏が何度となく自分自身に問いかけてきたものなのであろう。もちろんこの第2部は高木氏の想像であり、そのことははっきり断ってあるが、ヒロシマ・ナガサキ、チェルノブイリ、その他科学技術(とくに核の技術)の利用によって地球の生物に破滅的な影響を及ぼした事項について、マリーと対話をしながら、高木氏はこの根源的な問いへの答えを探そうとする。天国のマリーは、科学技術が地球の生命を脅かすのに使われている20世紀後半の世界を憂いていて、「アインシュタインも、オットー・ハーンら他の科学者も、天国でいまも苦しんでいるのです」と語る。熱が入ったところは、マリーのせりふという設定で書かれているとはいえ、もはや独り語りのようになっているが(そこがまたいい!)、少年少女にもぜひ科学技術の利用について考えてほしいと考えている氏の深い思いが伝わってくる。 

読んでみようと思う方がいるかもしれないので、これ以上は書かないが、この対話の中の、いまや「X(エックス)がちがってきた」という部分は、『プルトニウムの恐怖』にまっすぐに通じる高木氏の主張の根本となるところと思われる。エックスというのは、レントゲンを発見したレントゲンが、謎に満ちたその光に与えた名前である。「科学技術が高度に発展した現在、我々は、自然の秘密を探ることだけではすまなくなっている。」と彼は書いている。ではいま、科学者が、いや、我々地球に住む人一人ひとりが探っていかなくてはいけないエックスとは…? 

とても美しく、読みやすい文章で書かれています。おすすめです。

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