昨年は新たに、かぎ針編み、クロスステッチ、パッチワークに挑戦して、小さいものではあるが十数点を仕上げることができた。棒針編みではセーターを編んでいるが、こちらは未完成。
どれも本や動画を参照しながら見よう見まねでやってみたので、やり方がおかしいところもあるのだろう、×の数が図案と違ったり、編み目の数がわからなくなったり、ファスナーを上下逆につけていたことに出来上がるまで気がつかなかったりと、それぞれの作品に一つ以上はがっくりするミスがあった。それでも、作品として出来上がるとやはり嬉しい。工夫すべき点や今後の課題もはっきりする。そして、下手なりに一個一個完成させていくうちに、学び上達するものである。
刺繍を通して世界について考えるという体験も新鮮であった。刺繍には各国の伝統柄というのが必ずあるが、それぞれの図柄は、その国の人々にとって非常に身近なものを題材にしている。たとえばトナカイやノウサギをモチーフにした北欧のクロスステッチ、スイセンやアイリスの花を丁寧に再現したイギリスの刺繍など。
各国の刺繍図案を眺めたりモチーフについて調べたりしながら考えた:日常生活の中でなじみや愛着のあるもの・美しいと感じられるものを、刺繍でもって日々使うものの中に再現することは、それが存在する幸せや喜びを確かめるための人間の知恵なのだろうか。針を布地に通しながら、地道な作業に人を駆り立てるのは、綺麗なものの姿を手元に残しておきたいという焦燥感と欲望だろうかと思ってみたりもした。「欲」という言葉のイメージは刺繍の世界の可憐さにそぐわないようにも思えるけれど、肩は凝るし目も痛くなる作業が大好きという理由で人は古来から刺繍をしてきたのではないだろう。
刺繍も編み物も針仕事もひとりでする手作業なのだが、手を動かしているとどういうわけか「人のいとなみ」というようなことについて考えてしまう、そうすると孤独な作業ではなくなるのであった。
ところで、今年はまたチェロをやる。
ずっと、チェロが弾きたくてたまらなかった。
以前の日記に、編み目を揃える練習はチェロの練習に通じるところがあると書いたが、今年は手芸から学んだことをチェロの練習にも活かして、新しい方向性を探っていこうと思う。
細かい課題は色々あるが、大まかには、作品の大小に関わらずとにかく仕上げること、その完成を積み重ねることで次に進んでいくことを今年の目標としたい。
勉強と絵にもそれぞれ今年の課題を設けた。
時々、何を信じて生きていったらいいかわからなくなり、すごく混乱したり動揺したりしてしまう。自分の中に諦めと殺伐とした思いがあり、心に嵐が吹き荒れることがある。世の中も非常に不安定で、人々は寄って立つものを失くしてしまったように感じられる。でも理不尽なものに潰されるのは悔しい。自分自身には頼れるように、いろいろやってみよう。
2011年11月18日
らくがき帳
普段、自分の勉強用に、ノートの他にらくがき帳を使っている。らくがき帳は便利だ。安いし、大きさもちょうどいいし、真っ白な紙に思いついたことを書いて、いらなければ破って捨てられる。何より、きちんと書かなければという気持ちの制約が取り払われ、勉強が作業になるのを防いでくれる。
このらくがき帳だが、子どもと接する時にも大変便利なものである。
私はこれまでたくさんの子どもに勉強を教えてきたが、個人指導を行う際に、らくがき帳は万能の仕事道具だと思っている。幼児から高校生まで、授業時の板書のかわりや計算用紙として使えるし、説明を書いたページをそのまま生徒にあげることもできる。筆談もできるし、子どもが退屈すれば、一緒に落書きをしたり、破って紙飛行機を作ったり折り紙をしたりもできる。子どももらくがき帳だと気軽に感じるらしく、絵の苦手な子でも表紙の動物の絵に眉毛を描いたりするし、すごく真面目な子でも、休憩中に横から手を伸ばして私の描いた絵に角を生やしたりしてくる。らくがき帳の懐の深さは、子どもとコミュニケーションをとるのに大変な威力を発揮するのである。
らくがき帳はまた、口でいくら説明してもほとんど理解できない子や、思っていることを喋れない子と接する際にも大変有効である。授業または面談中、ほとんど何もしゃべらずとも、一緒に図や絵を描いたりしているうちに、その子が何らかの方法で、学習すべき内容を理解したということがよくある。そして、さらに重要なことは、子どもが気楽な気持ちで描いた絵や文字から読み取れる情報には、会話や子どもの表情だけでは見過ごしてしまったかもしれないサインが多く含まれているということだ。たとえば、とても素直でいつもニコニコしていて成績も優秀な子が血の滴る人の絵を描いたことがあるが、こういうのは自分がその子を一面的にしか見ていなかったのかもしれないと気づかされるのに十分な情報である。
もちろん、らくがき帳が使いやすいというのは、私の性質に合っているからで、人に無理にすすめするつもりはない。私は絵を描くのも好きだし、自由度の高いものをいろいろな方法で使ってみることも大好きだ。先に述べたように自分の勉強用にもらくがき帳を使っているのである。それに、子どもの細かい感情の機微を言葉や表情から感じ取って、子どもが言ってほしいと思っているであろう言葉をかけるのは苦手だが、らくがき帳を使って子どもに語りかけたり気持ちををほぐしたりすることならできる。だから長年これを仕事道具にしているのである。
このようにらくがき帳にはこれまでにだいぶお世話になってきたが、最近、また新たならくがき帳の凄さを知った。今年に入って、生きづらさを抱えて苦しんでいてその苦しみのために日常生活にも支障のある子どもと接する機会を少しずつ持っているのだが、興味深いことに、ある子どもが描いた絵が私のらくがき帳に残っていると、まったく別の子がおもしろがってその絵にコメントしたり、付け加えをしたりすることがとてもよくあるのだ。それぞれの子どもは年齢も学校も違うし、性格も抱えている問題も違うし、何よりまったく接点はないのに、他の子が描いたものに興味を持つらしい。私は特に意識せずどの子と会うときも同じ一冊のらくがき帳を持っていっていたのだが、これは発見であった。しかも、私は誰が描いたともどんな子かとも言わないが、そもそもそんなことを聞かれたことがほとんどないのだ。彼らは描かれたものに興味を示すのであって、どんな人が描いたのかはとくに重要でないらしい。互いに知らない子どもたちが、一つの絵をどんどん改造したり、セリフを書いたりする。一応、「このらくがき帳に描いた絵は、他の子が見たり書き加えたりすることもあるよ。嫌ならそのページは私が別にとっておくね」と言うようにしているが、こだわりの強い子でさえ、自分の絵に何か付け足されたりしてもほとんど気にならないようだ。怒るどころかむしろ喜ぶことも多い。ちなみに私の描いた力作ムーミンは、数人の子の手を経て、長いしっぽが生え牙が生え眉毛が生え目が血走ってユーモラスな怪物になってしまった。というわけで、あまりに残酷な内容や手記のようなものが書かれていればもちろん切り取って別にしておくが、互いに知らぬ子同士が一種のコミュニケーションをとっているのが興味深く、最近では、落書きやイラストのようなのはむしろ残しておくようにしている。
やはり同じ子ども同士、どこかの子が自分と同じように生きづらさを抱えながらもこうやって落書きしているということに、何か安心を覚えるのかもしれない。
登録:
投稿 (Atom)